松平信康/wikipediaより引用

徳川家

松平信康(家康の長男)はなぜ自害へ追い込まれた? 謎多き諸説を考察

天正七年(1579年)9月15日は、松平信康が自刃した日。

徳川家康と、その最初の妻である築山殿(つきやまどの・瀬名姫)との間に生まれた大事な嫡男ですね。

そして徳川にとっては、後味の悪さでは別格なエピソードの中心人物でもあります。

いったい何が起きたのか?

今回は信康の生涯を追いかけるカタチで、その最期にも触れてみましょう。

 

清洲同盟の成立を機に信長の娘と家康の息子

信康は、永禄二年(1559年)3月6日、徳川家康の長男として駿府で生まれました。

母は築山殿(瀬名姫)。

このころ家康は今川家の人質だったため、信康も同じような扱いだったと思われます。

桶狭間の戦い(1560年)】で家康が出陣していた頃は、おそらく今川家の本拠である駿府にいたのでしょう。その後、人質交換により岡崎城へ移りました。

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そして永禄五年(1562年)、家康と織田信長の間で清洲同盟が成立したとき、「互いの子供たちを結婚させ、より強固な関係を保とう」ということで、信長の長女・徳姫との結婚が決まります。

この時代には珍しい、同い年の夫婦でした。

結婚したこともあり、家康が浜松城に移ってからは、父祖の地である岡崎城が信康に譲られています。

実は、元服したのはその後のことでした。

「信」の字はもちろん、信長からの偏倚です。

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「結婚するのに幼名のままでは体裁が良くないので、先に元服させる」というケースのほうが多いと思われますので、信長と家康の間で急ぐ理由があったのか。

あるいは「こまけえこたあいいんだよ」と信長が押し切ったか。

後者のほうが確率高そうな気がしますね。

 

対武田との戦では重要な役どころを任されたりしたが

その後、正式な岡崎城主となり、14歳で初陣を果たした信康。

初陣の二年後には、長篠の戦いで一軍を任されていますので、若大将として認められていたのでしょう。

対武田家(武田勝頼)との戦には、その後も織田・徳川連合軍の一人として加わっており、特に天正五年(1577年)8月の遠江横須賀の戦いでは、退却時の殿(しんがり)を務めました。

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このときは武田軍の追撃を防ぎ、大井川を越させなかったといいます。

殿も渡河戦も、難しい戦況のひとつです。それを立派にやって、自分も生きて帰ったのですから、信康の指揮能力は卓越したものだったとみて間違いないでしょう。

家康も息子の出来に満足していたはずです。

しかし、天正七年8月に突如として暗雲がたちこめます。

普段は浜松にいる家康が岡崎城にやってきて、信康を締め出してしまったのです。

信康はその後、徳川領内の城を転々とさせられた後、9月15日に切腹させられてしまいました。

なぜ、そんなことになってしまったのか……。
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