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【松平信康】
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信長が信康を恐れた? 信忠も優秀だが
信康の首は一度信長の元に送られ、その後、若宮八幡宮(愛知県岡崎市)に葬られたといわれています。
あまりにも事が急に進みすぎているため、現代の我々からしても「ゑっ?」と口を開けてしまいますよね。
しかもこれについて、同時代の信頼できる史料がほとんどありません。
出典は『三河物語』とされていることが多いですけれども、この本が成立したのは江戸時代。
信康の件だけでなく、ところどころに改変されたと思わしきところがあるため、信憑性は十分とは言えません。
信康切腹について、スタンダードとされる経緯はこんな感じです。
【松平信康切腹までの流れ】
・信康の正室である徳姫は、姑である築山殿と仲が悪かった
・それに対して信康が妻の味方に付かず、また徳姫が娘しか産まず、息子を産んでいないことなどをなじった。
・そのため徳姫は父の信長に、信康の不行状や不仲であることをこまごまと書いた手紙を送った
・信長はそれを見て激怒し、家康に嫡男と正室の切腹を迫った
・徳川家では反対の声も強かったが、家康は信長に逆らえず、その通りにした
いくら信長が娘に甘いとはいえ、手紙一つで同盟相手の嫡男を殺すほどの親バカではありません。
「信長は自分の息子(信忠)よりも信康のほうが優れていると考えて、信康を恐れていたから自刃させた」という説もありますが、それは織田信忠を過小評価し過ぎでしょう。
詳しくは以下の記事に譲りますが、信忠も非常に優れた武将でした。
信長の跡を継いだ織田信忠 なぜ本能寺の変で自害に追い込まれた? 26年の儚き生涯
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それに、信長なら信康を殺すよりも、信忠に対して細々とした叱責の手紙を書きそうな気がします。
信長が怒るときや絶対に言うことを聞かせたいときって、だいたい長い手紙を書いていますからね。ある意味、筆まめです。
兄・水野信元を石川数正に殺された於大の方
また、別の記録では信康がケンカした相手の名前に当たる部分が破損しており、
「徳姫ではなく、親族の誰かか、母親の築山殿、もしくは於大の方と不仲だったのではないか」
という説があります。
何でこんなにバラバラなのかというと、名前の部分が「御◯◯◯」となっているからです。
「御」がつくからには徳川家の親類縁者の誰かには間違いありませんが、これだけでは性別すらわかりません。
このうち、於大の方だけは信康と不仲になる理由と思しき点があります。
天正3年(1575年)12月、信康の後見人である石川数正が、信長と家康の意に従い、於大の方の兄である水野信元を殺害しているのです。
信康本人が手を下したわけではないにしろ、恨む理由にはなりますよね。
孫とはいえ、会っていたかどうかわかりませんし。
また、徳姫や築山殿の政治力は不明ですが、於大の方は後年に歳をとってからも割と自分で動いているので、兄の敵に属する信康のことを不快に思い、何かやっていても不思議ではありません。
家康も母親の所望なら断れないでしょうね。
とはいえ、人の心の機微は記録に残らないもの。於大の方が黒幕だとも言い切れません。
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