1579年10月5日(天正7年9月15日)は松平信康が自害した日。
徳川家康と、その最初の妻である築山殿(つきやまどの・瀬名姫)との間に生まれた大事な嫡男ですね。
そして徳川にとっては、後味の悪さでは別格なエピソードの中心人物でもあります。
いったい何が起きたのか?
今回は信康の生涯を追いかけるカタチで、その最期にも触れてみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
清洲同盟を機に信長の娘と家康の息子
信康は、永禄2年(1559年)3月6日、徳川家康の長男として駿府で生まれました。
母は築山殿(瀬名姫)。
このころ家康は今川家の人質だったため、信康も同じような扱いだったと思われます。
【桶狭間の戦い(1560年)】で家康が出陣していた頃は、おそらく今川家の本拠である駿府にいたのでしょう。
その後、人質交換により岡崎城へ移りました。
そして永禄5年(1562年)、家康と織田信長の間で清洲同盟が成立したとき、「互いの子供たちを結婚させ、より強固な関係を保とう」ということで、信長の長女・徳姫との結婚が決まります。
この時代には珍しい、同い年の夫婦でした。
結婚したこともあり、家康が浜松城に移ってからは、父祖の地である岡崎城が信康に譲られています。
実は、元服したのはその後のことでした。
「信」の字はもちろん、信長からの偏倚です。
「結婚するのに幼名のままでは体裁が良くないので、先に元服させる」というケースのほうが多いと思われますので、信長と家康の間で急ぐ理由があったのか。
あるいは「こまけえこたあいいんだよ」と信長が押し切ったか。
後者のほうが確率高そうな気がしますね。
対武田との戦では重要な役どころを任され
その後、正式な岡崎城主となり、14歳で初陣を果たした信康。
初陣の2年後には、長篠の戦いで一軍を任されていますので、若大将として認められていたのでしょう。
対武田家(武田勝頼)との戦には、その後も織田・徳川連合軍の一人として加わっており、特に天正5年(1577年)8月の遠江横須賀の戦いでは、退却時の殿(しんがり)を務めました。
このときは武田軍の追撃を防ぎ、大井川を越させなかったといいます。
殿も渡河戦も、難しい戦況のひとつです。それを立派にやって、自分も生きて帰ったのですから、信康の指揮能力は卓越したものだったとみて間違いないでしょう。
家康も息子の出来に満足していたはずです。
しかし、天正7年7月に突如として暗雲がたちこめます。
普段は浜松にいる家康が岡崎城にやってきて、信康を締め出してしまったのです。
信康はその後、徳川領内の城を転々とさせられた後、9月15日に切腹させられてしまいました。
なぜ、そんなことになってしまったのか……。
※続きは【次のページへ】をclick!