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【石川数正】
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episode② 桶狭間と家康自立
数正と家康にとって、運命の日はやはり永禄3年(1560年)5月19日であろう。
【桶狭間の戦い】である。
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織田信長に今川義元が討たれると、松平元康(後の徳川家康)は、たった18騎で大高城から東へ向かった。
矢作川を渡れば、そこは岡崎。
右岸の北野から左岸の大門へと渡っている。
この渡河点は、3匹の白鹿が渡っているのを石川数正が見つけ、以降「三鹿の渡し」と呼ばれるようになった。
現在は、以下の写真の通り、四代目「鹿ヶ松」と案内板があり、次のように書かれている。
「永禄3年(1560年)3月21日、桶狭間の合戦に敗れた松平元康(当時19歳の徳川家康公)は、織田軍の追跡を逃れこの地まで来たが、矢作川が前日の雨で増水し、渡ることができずにいた。
その時、長瀬八幡宮の森から鹿が出て、松の大木の陰から矢作川を大門の郷へと渡った。
家臣の石川伯耆守がこれを見て「八幡大菩薩の化身である。浅瀬を知る鹿に続け。」と主従18騎で川を渡り、無事に大樹寺に入ることができた。
後に徳川幕府は、矢作川堤防のこの地に松を植えた。以来、この松は「鹿ヶ松」と呼ばれるようになったという。」
【案内板より】
正直、この「三鹿の渡し」伝承には疑問がある。
仮に一定のところまでが史実だとすると実際はどうだったか。当時のことを想像してみると
交渉を得意とする石川数正が、近くの長瀬八幡宮へ行くと、神官3人が馬に乗ってやってきて、渡し舟を使わず、騎乗のまま矢作川を渡れるかどうか試した
そんなところではないか。
「桶狭間の戦い」後、松平元康は、岡崎城への帰還を果たし、駿府へは戻らなかった。
主君である今川氏真には
「西からの織田勢の追撃を食い止める」
と伝えて岡崎城に残り、織田信長や水野信元と、尾三境界で領地(境界)争いを繰り広げるのである。
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例えば永禄4年(1561年)の「石ヶ瀬川の戦い」では、石川数正も、水野信元(後に徳川家臣)の家臣・高木清秀と7度にわたり槍を交えている※4。
なお、水野信元とは、徳川家康の実母・於大の方の兄――つまり家康の伯父である。
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信元は、後に徳川家臣となるのだが、天正3年(1575年)12月、織田家臣・佐久間信盛の讒言により誅殺命令が出されてしまい、家康は、石川数正と平岩親吉に大樹寺(岡崎市鴨田町広元)で暗殺させた。
兄を殺された於大の方は、石川数正を深く恨み、この暗殺が、後の家康嫡男・松平信康とその実母・築山殿の粛清や石川数正の出奔の原因になったともいう。
とある時代小説では、織田信長から松平信康と築山殿の誅殺命令が出ると、悩む徳川家康に対し、実母・於大の方は、
「われも兄を殺されたのじゃから、そなたも妻子を殺せ。それが戦国の世というものじゃ」
と粛清を促している。井伊直虎を描いた大河ドラマでも、於大の方が非情な決断を促していた。
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こうした紆余曲折を経て、織田信長は、滝川一益を石川数正へ遣って和議を申し込み、これが契機となって永禄5年(1562年)、松平家康と織田信長の間に「清洲同盟」が成立した。
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※4 石ヶ瀬川と鞍流瀬川との合流地点付近での松平元康と水野信元
episode③ 今川家との人質交換
織田家と徳川家の間に成立した【清洲同盟】。
これは同時に今川との衝突を意味しており、新たな危機の訪れでもあった。
「裏切られた!」と怒った今川氏真が、人質的存在となっていた3人を殺す可能性が出てきたのである。
そう、徳川家康の正室とその子どもたちである。
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彼らを助けるため石川数正は、松平元康の反対を押し切って駿府に単騎で乗り込んだ。
そして、上ノ郷城城主・鵜殿長照(うどのながてる・今川義元の妹の夫)の2人の遺児(鵜殿氏長・鵜殿氏次)と松平康俊(徳川家康の異父弟)との交換条件を持ち出し、見事に3人を取り戻すことに成功した。
トレードマークの「八の字髭」(大髯)を風に靡かせ、あたかも口で噛んでいるが如く下へ反らせながら、颯爽と岡崎に帰ってきた数正。
馬の背には竹千代も乗っており、岡崎の人々は歓喜、岡崎東端の根石原(念子ヶ原・愛知県岡崎市若宮町)まで迎え出たという。
同日は、石川数正にとって、人生最良の日であったろう(史料『三河物語』と『常山紀談』を記事末に掲載)。
この人質交換、私も感情的には、岡崎の人々同様、出迎えて拍手したい。
が、政治的にはどうだったのか?
徳川家康の父・広忠は、水野氏が織田方に寝返ると、於大の方(水野氏)を離縁して、今川氏に忠義を示した。
これと同様に、政治的には妻・瀬名姫を離縁して駿府に残し、子供たちだけ岡崎に連れ帰るのが正解だったと思われる。
しかし、石川数正は、同じ河内源氏の瀬名姫の命を救いたかったのであろう。
人質交換の結果、徳川家康に対する怒りの矛先を失った今川氏真は、駿河御前の両親を自害に追い込んでいる。
では、岡崎入りした「築山殿」は、幸せであったろうか?
一説に「徳川家康を今川の重臣とし、結婚後も駿府に住めば良い」と言われたからこそ築山殿は家康と結婚したのであって、「三河(田舎)に行け」と言われたら、プライドの高い文化人である彼女は断っていたであろう。
実際、縁談を断っていたので、結婚適齢期を過ぎていたともいう。
田舎では色々な物も入手しにくい。
正室の役目として、家臣の妻たちと仲良くしようと思い、女子会を開いて「十炷香(じしゅこう)をしましょう」と言ったら「何のことですか?」と返されたという。
彼女以外は誰も知らなかったのだ。
おそらくや三河弁も嫌っていたであろう。
同じくプライドの高い文化人である石川数正も、駿府から田舎(三河)に戻って、三河には、弓懸(ゆがけ・弓を引く時に使う手袋)の緒の結び方を知る人がいなくて嘆いている。
数正は、自らが助けた築山殿が三河に馴染むことができず、嘆く姿を見て同情したに違いない。
おまけ:瀬名姫はなぜ築山殿と呼ばれる?
幼名不明で一説に「鶴姫」とも。
瀬名氏の娘なので、便宜上、「瀬名姫」と呼ばれた。
父・瀬名義広は、関口氏の養子となって関口親永と名乗っている。
瀬名氏も関口氏も今川氏の傍流で、河内源氏であり、一説には人質交換後、離縁されたという。
瀬名姫は、宿敵・織田信長を倒してくれる人を探して、好色で有名な朝倉義景の側室になったが、朝倉義景が口先だけの人物だと知って失望。
離婚して大坂にいた時、長男・松平信康に岡崎へ呼ばれ、岡崎城外の築山(地名)に住んだため「築山殿」と呼ばれたとも伝わる。
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離縁されていたので「築山御前」とは呼ばれなかった(一次史料『家忠日記』での呼称も、「御前さま」ではなく、「信康御母さま」である)が、現在、浜松市では「築山御前」と呼ぶようにしている。
episode④ 三河一向一揆と三方ヶ原の戦い
今川義元の偏諱「元」を捨て、「松平元康」から「松平家康」に改名した後の徳川家康。
当面の目標は三河統一となったが、そこで後に【三方ヶ原の戦い】や【神君伊賀越え】と並び「家康三大危機」と称される危機に直面する。
【三河一向一揆】である。
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往々にして宗教戦争の根は深い。
事実この時代には加賀や越前などで猛威を奮っていたが、三河ではわずか半年、永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)までの間で済んでいる。
他の地域に比べればかなりの早さだ。
では、なぜこれが「家康三大危機」と呼ばれるのか?
浄土宗である松平家康の家臣には、一向宗(浄土真宗)の信者が数多くいて、家臣団が真っ二つに割れてしまったのだ。
そこで激しく悩んだのが他ならぬ石川数正である。
このころすでに父・石川康正から石川家の家督を譲られていた数正は、主君・徳川家康に対抗する一向宗(浄土真宗)のリーダーでもあった。
そもそも三河石川家の氏祖・石川政康は、本願寺蓮如(蓮譽)に
「三河国で一向宗信者の武士たちのリーダーになっていただきたい」
と言われ、はるばる下野国からやってきた人物である。
◆参考資料『寛政重修諸家譜』「石川政康」
「文安年中、本願寺蓮譽、法を弘めむがため下野国に来たるの時、政康に語りて曰く、「三河国は我が郷党なり。武士の大将として一方を指揮すべき者無し。願はくは、三河国に来りて我が門徒を進退すべし」となり。これにより、蓮譽と共にかの国に赴き、小川城に住す。」
当然ながらその立場は一揆サイドになってしまうが、ここで石川家は【一族内で袂を分かつ】という道を選択した。
康正が一向宗側で、数正と家成たちは浄土宗に改宗して松平家康についたのだ(石川家成は康正の弟・数正の叔父にあたる)。
結果的に数正のチョイスは正しかった。
一揆勃発から半年後に和議が成立。
上和田浄珠院で起請文を交換し、続けて土呂殿本宗寺の寺内町に石川家成が乗り込み、武装解除させて戦乱終結となったのだ。
三河一向宗の中心地は、石川政康が蓮如に寄進した【土呂殿本宗寺】だった。
蓮如は、本宗寺に孫を住職として入れて「一家衆寺」(一向宗の法主の血縁者が住職の寺)としたので、本宗寺は別格扱いされていた。
また、土呂(とろ)の賑やかな町並みは、京都に似ていることから「都路」と表記されていたというが、「三河一向一揆」の最後の最後に焼け野原と化している。
家督が剥奪された(石川家の家督は石川家成に与えられた)石川数正は、土呂の復興事業に専念。
土呂城の築城や土呂八幡宮の再建、「土呂の三八市」の開催に尽力している。
『泥棒』の語源は『土呂御坊』だと言われるくらい荒れていたとされるが、市の開催により、賑やかな町に戻った。
「三河一向一揆」を鎮圧した松平家康は、東三河にいる今川勢力の平定に専念し、ついに永禄9年(1566年)に三河国を統一。
そこで「徳川家康」に改名し、徳川家臣団の編成を「三備(みつぞなえ)」とした。
「三備」の制とは以下のような3つに分けられた軍団を意味する。
程なくして永禄12年(1569年)。
石川家成は掛川城主に任命され、次に甥の石川数正が西三河の「旗頭」となった。
◆参考資料『徳川実紀』
掛川城をば石川日向守家成に守らしめらる。是より先、三河一国帰順の後は、本国の国士を二隊に分け、酒井忠次、石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが、家成、今度、掛川を留守するにおよび、旗頭の任は、甥の数正にゆづり、その身は、大久保、松井等と同じく、遊軍にそなへ、本多、榊原等は御旗下を守護す。
その後の徳川家康は、遠江国にも侵攻。
快進撃を続けたところで、ついに巨大な壁に激突する。
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石川数正は、さすがに武田信玄には勝てないと思ったらしく、土岐家の浅岡某に弓懸の緒の結び方を学んだという。
討ち取られた後、
「こいつ、弓懸の緒の結び方も知らんのか、田舎者だな」
と笑われるのが嫌だという逸話である。
後にこの話を信玄が聞いた時
「武士のたしなみ、誰でもかくあるべきなり」
と称賛したという。
小さなエピソードだが、石川数正が文化人であった(文化人たらんとした)ことを示す重要なエピソードでもあろう。
◆参考資料『常山紀談』「石川数正、浅岡某に韘の緒の結び様を習ふ事」
味方原合戦の時、数正は、信長の加勢として遠州に向ひけるが、「武田、おしよする」と聞き、とつて返す。美濃の守護・土岐家に有りといふ浅岡の某、弓箭をとりてさるふる兵と聞えしかば、彼が許に行き、「此度、本国に帰りなば、必ずうち死仕るべし。数正、弓箭をとり打物とりてかたの如く軍にあふ事、度々なり。然ども、軍に臨むの日、韘の緒むすぱん様、故実ある事と承りていまだ学候はず。されば、死後に『韘の緒とむる骨法しらざりし』と、かたき笑れ候はん事、骸の上の恥辱にて候へば、教を承り度くこそ」とて習ひ伝へ、夜を日につぎて馳下り、味方原の軍にも殊にすぐれて武勇をふるひたりけり。
家臣が分裂した「三河一向一揆」(1563年~1564年)。
武田信玄にトコトン追い込まれた「三方ヶ原の戦い」(1573年)。
2つのピンチを乗り越えた家康に1579年、さらなる悲劇が待っていた。
築山殿と松平信康の自害である――。
石川数正が命がけの「人質交換」で助けた2人が自害に追い込まれてしまった。
数正にとっては同じ河内源氏であり、「文化人」として気が合った築山殿と、後見人(傅役)を務める松平信康が相次いで自害したのである。
不思議なことに、この時の石川数正の顔が見えない。
織田信長に弁明するのは、西方の外交担当である石川数正の責任のハズだ。
にもかかわらず織田家のもとへ行ったのは、なぜか東方外交担当の酒井忠次である。
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松平信康のもうひとりの後見人である平岩親吉は浜松城に駆けつけ、
「後見人である自分の首を織田信長に差し出して許してもらって下さい」
と松平信康の助命嘆願をしていた。
いったい数正は、こんな重要な時期に、どこで何をしていたのか?
残念ながら詳細は不明。
いずれにせよ岡崎城主・松平信康の自害後、石川数正は、城主がいなくなった岡崎城の城代に就任した。
徳川家康は、彼に地位を与えることにより、その怒りを鎮めたのだという。
※一説に、松平信康の2人の後見人は、平岩親吉と榊原清政(榊原康政の兄)だという。
榊原清政は、平岩親吉が持っていた松平信康の遺髪を譲り受け、江浄寺(静岡県静岡市清水区江尻東3丁目)に遺髪を納めた供養塔をたてた。
石川数正は、根石原の若宮八幡宮(愛知県岡崎市朝日町)に松平信康の首塚、根石山祐傳寺(愛知県岡崎市両町2丁目)に築山殿の首塚を築いた。
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