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【石川数正】
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episode⑤ 謎の出奔
徳川家のピンチは、何かと織田が絡んでいるが、その最たるものが【本能寺の変(1582年)】であろう。
信長の接待を京都で受けた後の家康は、明智光秀の凶行を聞くや【神君伊賀越え】を果たして三河に舞い戻った。
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このときも石川数正は付き従っている。
「家康三大危機」は、全て数正と乗り越えていたのである。
その翌年以降の動きをまずはザッと確認しておこう。
・天正11年(1583年)51歳「初花」を贈る使者に選ばれる。
・天正12年(1584年)52歳「小牧・長久手の戦い」
・天正13年(1585年)53歳 数正が出奔し、羽柴秀吉に仕える。
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徳川家康は、上方の事には無関心を装い、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家が潰し合って共に弱小化するのを待っていたとされる。
しかし、天正11年(1583年)4月。
【賤ヶ岳の戦い】に敗れ、北ノ庄城(福井県福井市大手3丁目)へ逃げた柴田勝家が、同年4月23日にお市の方らと共に自害したと聞いて、「早や、早や(早い、早すぎる)」と絶句したと伝わる。
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すぐに頭を切り替え、坂本城の羽柴秀吉のもとへ石川数正を派遣した。
◆史料『徳川実紀』
十一年五月、石川数正を京に御使して、築前守秀吉のもとへ「初花」といへる茶壺を、をくらせ給ふ。秀吉よりも使もて「不動国行の刀」を進らす。
早速、徳川家康は、戦勝祝いとして織田信長愛用の茶入「初花」を贈った。
これに対して羽柴秀吉は、織田信長愛用の名刀「不動国行」を返礼として贈ったという。
暗く閉鎖的な三河武士と相反する、明るく開放的な羽柴秀吉。石川数正は、その人柄に惚れたという。
家康に茶器なし──という言葉がある。
「茶器を持っていても、外交の道具として使い、風流を心得ていない田舎者」という意味で、その由来は次の通り。
諸大名を集めた席で秀吉と家康の会話が行われた。
【意訳文】
「徳川殿は、どんな宝をお持ちか?」
「私は田舎者なので美術品は持っていない。宝は、私のためなら火の中、水の中と命を惜しまない500騎の武士である」
「そういう宝ならワシも欲しい」
【原文】
「徳川殿には何の宝をか持せらるゝ?」
「それがしは、しらせらるゝ如く、三河の片田舍に生立ぬれば、何もめづらかなる書画、調度を蓄へし事も候はず。さりながら、某がためには水火の中に入ても命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ家康が身に於て第一の宝とは存ずるなり」
「かゝる宝は、われも欲しきものなり」
まさか、この徳川家康の言葉が原因で、徳川家臣の調略を始めたとは思いにくい。
されど豊臣秀吉だったら
「ならばその500騎の徳川家臣を我がものとし、『そちの為に命を惜しまないと言っていた家臣が、今はわれに命を捧げると言っている』と言い返してやろう」
と考えそうな狭量な面も否めない。
いずれにせよ……。
天正13年(1585年)11月13日 石川康輝出奔──。
なぜ出奔したのか?
今なお徳川家でも最大のナゾである、その諸説・理由を3項目に分けて挙げてみる。
※数正は数度の改名をしており「石川康昌」(「長篠合戦図屏風」)の後に「石川康輝」とあるが、本記事では「石川数正」で通す
【1】豊臣秀吉関連
①豊臣秀吉に惚れられた
→豊臣秀吉に気に入られてヘッドハンティングされた
②豊臣秀吉に惚れた
→徳川家康より、豊臣秀吉の方が優れていると思った
③豊臣秀吉と内通しているという噂が広まった
→豊臣秀吉を大きく評価し「上方好き」と呼ばれていた
【2】徳川家康関連
①松平信康の扱いに不満
→自分が後見人だけに、信康に自害さない方法を考えて欲しかった
②叔父・家成を石川氏嫡流とした件に不満
→浄土宗に改宗したのに、傍流にされたことに怒りを覚えたというが、酒井家も宗主が変えられた
③徳川家康の無欲さに不満
→天下を狙う人を主君としたい
④実は徳川家康のスパイ
→実は豊臣家臣団の内情を探るスパイとして潜入した
【3】石川数正自身の問題
→徳川家康の命令で、水野信元(於大の方の異母兄)を殺害した
②信康派筆頭であったので居場所がなくなった
→松平信康が自害して、徳川家内での居場所がなくなった
③最後にもうひと花咲かせたかった
→徳川の重臣から、豊臣の重臣へ
結論は?
どの説が正しいのか?
今なお学者での議論は続いているが、私は
【スパイ説以外は全て正しい】
と思っている。
「出奔」という大きなことをする理由が1つだけとは考えにくいからだ。
石川数正は築山殿同様、「プライドが高い文化人」であったことが、謎を解く鍵のような気がする。
そこで、上の諸説に2つ加えておく。
「都への憧れ」説
若い時に暮らした「第二の京都」駿府、土呂の繁栄が忘れられない。
岡崎は田舎で、弓懸の緒の結び方を知る人もいない。
外交官として、豊臣秀吉に会いに上洛して、駿府や土呂を思い出し、「余生は都で暮らしたい」という気持ちが強くなった。
「終活」説
石川数正の出奔は53歳。
「本能寺の変」を起こした明智光秀は54歳(諸説あり)。
どちらも「死ぬまでに子に何か残さねば」と考えていたと思う。
石川数正は、上洛して、「これからは豊臣家の世となる」と判断して、豊臣家の家臣となった。
その後のespisode① in和泉国
石川数正の出奔について、こんな俗説も囁かれたりする。
「豊臣秀吉に騙された」
「贈り物をもらって出奔した」
この贈り物とは何なのか?
石川数正は豊臣秀吉の家臣となると、豊臣秀吉から「吉」の1字をいただいて、名を「石川出雲守吉輝」と改名。
和泉国内で8万石を与えられて織豊大名となった。
和泉国のどこが与えられたかは不明であるが、河内国石川郡壷井、すなわち、石川氏発祥地も含まれていたと思われる。
贈り物とは、「吉」の1字と領地(石川氏の本貫地)であろう。
こんな説もある。
天正12年(1584年)の徳川家康と羽柴秀吉の最初で最後の戦いである「小牧・長久手の戦い」の和議の条件は、「実子と重臣(一説に石川数正と榊原康政)を人質に差し出すこと」であった。
これに対し、徳川家康は、実子(次男・於義丸)、石川数正の子・勝千代、本多重次の子・仙千代を人質として送ったが、羽柴秀吉は不満で、交渉が決裂しそうになったので、交渉役・石川数正は出奔した(自ら人質になった)とも、子を人質にとられたので出奔したともいう。
いずれにせよ真相は不明だ。
「本能寺の変」と同様「石川数正の出奔」もまた、数正がその後7年間、黙して語らず墓に持ち込んだため、我々は想像するしかないのである。
豊臣家にとっては?
石川数正という徳川重臣のヘッドハンティングは、徳川家には大きな衝撃を与えた。
では一方の迎え入れた豊臣家は?
野球に例えれば、名キャッチャーの引き抜きのようなものかもしれない。
豊臣秀長や石田三成、堀秀政など既に名キャッチャーのいる豊臣家にとって他チームの名キャッチャー(石川数正)を引き抜いたところで、あくまで予備(スペア)であり、レギュラーにはではない。
しかし、引き抜かれたチーム(徳川)の戦力は大幅にダウンする。
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庶民はどう思っていたか?
秀吉の傘下になった後、石川数正の門前には、連日、次のような「落首」があったという。
落首とは、立て札を立て、世相を風刺した狂歌が匿名で描かれる落書きであり、要は数正の悪口が書かれたのである。
徳川の家につたふる古箒 落ての後は木の下をはく
家康のはき捨られし古箒 都へ来てはちりほどもなし
「古箒(ほうき)」は石川伯耆(ほうき)守のことを指し、「木の下」は木下藤吉郎(豊臣秀吉)である。
さしずめ
「チーム豊臣には、老人は必要ない」
といったところであろう。
我々から見れば上手い表現だが、数正には笑えない出来事だったかもしれない。
その後のespisode② in信濃国松本
『常山紀談』では、数正の8万石について次のように記している。
石川数正は、豊臣秀吉に騙されて出奔した。
豊臣秀吉は和泉国に8万石与え、武者奉行を命じた。
石川家は徳川家に代々仕えてきたが、この反逆により、これまでの忠節も武功も消え去った。
石川数正ほどの人物が、孔子『論語』の「及其老也血気既衰戒之在得」(老年になると血気は既に衰えている。欲深さを戒めるべし。)を知らないとは、情けない。
◆史料『常山紀談』
太閤に欺かれ、岡崎の城を出て上方に登り、豊臣家に奉公す。太閤、和泉をあたへ、武者奉行を命ぜられぬ。数正、徳川家累代の君恩に叛き、一生の忠節、武功を空しくす。血氣、既に衰ふる時は、是を戒る事にありといへる聖人の言、知らざりけるこそうたてけれ。
天正18年(1590年)、【小田原征伐】の後に石川数正は、信濃国松本へ10万石に加増移封された。
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松本(長野県松本市)は、信濃小笠原氏の信濃守護・小笠原長時の領地であった。
しかし、天文17年(1548年)に武田信玄が奪い、小笠原長時、貞慶(小笠原長時の三男)父子は、諸国を放浪。
天正7年(1579年)に、会津の蘆名氏のもとに寄寓していた時、小笠原貞慶が家督を継いでいる。
そして武田勝頼や織田信長の死後、天正10年(1582年)の【天正壬午の乱】において、小笠原貞慶は、長男の小笠原秀政を徳川家康に人質として差し出し、徳川家臣となって「深志城」を奪還し、「松本城」と改名した。
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この人質・小笠原秀政は、石川数正預けとされた。
天正13年(1585年)、石川数正が、人質・小笠原秀政を引き連れて豊臣秀吉の元へ出奔すると、小笠原貞慶も豊臣秀吉の家臣となっている。
しかし天正18年(1590年)、小笠原貞慶は秀吉の怒りを買って所領は没収され、石川数正に与えられた。
そんな状況で石川数正が松本に入り、歓迎されたか?
それともブーイングか?
石川数正の松本での実績は以下の3つ。
石川数正は、小笠原氏が築いた松本城(長野県松本市丸の内)に天守を造営したり、城下町の整備をした。
ただし、自身の代では完成せず、嫡男・石川康長が過酷な強制労働を強いて完成させている。
松本城
石川数正は、松本城の月見楼に家臣を呼び、建設中の天守を見上げながら、月見の宴を開いたという。この様子は、松本駅の名物駅弁「月見五味めし」のパッケージにも描かれている(公式サイト)。
松本城の国宝である天守の外装は黒いので「烏城」と呼ばれている。
豊臣秀吉時代の城(烏城こと松本城など)は黒い。
金箔瓦が映えるようにしたためであり「徳川家康時代の城(白鷺城こと姫路城など)は白い。豊臣の世から徳川の世に変わったことを示すため」と言われてきた。
が、実際は違うらしい。
黒いのは、墨を塗った黒い板を張る「下見板張り」だからで、白いのは「漆喰(しっくい)」を塗っているから。
漆喰は耐火性能が高く、使えるのであれば使いたい訳で、徳川家康時代になって白い城が築かれたのは、ただ単に「漆喰の大量生産を可能にする技術革新」のゆえだという。
女鳥羽川の治水工事
「名君」と呼ばれる人の多くが治水工事を行っている。
石川数正は、女鳥羽川の治水工事をした。
女鳥羽川の川岸に鎮座する鎮神社(長野県松本市大手4丁目)の案内板には次のように書かれている。
「鎮神社
祭神罔象能賣命
由緒
松本城主たりし石川数正大いに心を土木に傾け城要害の為、女鳥羽川の流路を変更堀鑿し水汲より大門沢へ流れを現在の通り直流させ流水による城下町氾濫の守護神として祭りしを当社の創立と言伝う
昭和六十五年二月十一日 東町三丁目」
では、次ページでは数正の死と、その後の石川家を見ておこう。
徳川の世になって、どんな事態を迎えたのか……。
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