宇喜多秀家/wikipediaより引用

宇喜多家

【戦国イケメン伝・宇喜多秀家】27歳の若さで五大老就任!しかし最後は八丈島へ

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「蛙の子は蛙」という言葉がありますが、中には「お前ら本当に親子か?」と疑いたくなるようなケースもあります。

今回はどちらかというと「鳶が鷹を生む」に近いお話です。
いや、親も親である意味スゴいんですけど……。

明暦元年(1655年)の11月20日、八丈島(東京都)で宇喜多秀家が亡くなりました。

この人は【絶望のティーパーティー主催者(=謀殺王)】として名高い宇喜多直家の息子です。
父は暗殺と謀殺を繰り返していたんですが。

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そうなると息子の秀家も毒殺暗殺が得意だったのか?
と思いきや、まったく逆タイプの人でした。

 

親とは似ても似つかぬ可愛らしい宇喜多秀家

秀家が家督を継いだのはなんと10歳のとき。

あまりにもお坊ちゃまらしいお坊ちゃまだったので、あの直家が病気になって心配して「私が死んだら、息子をよろしくお願いいたします」と秀吉に申し入れているくらい、親とは似ても似つかない子供だったそうです。

いや、これはむしろ直家に人情家の面もあったという深イイ話に……なりますかね?

家督をついだ秀家は、小学5年生で1万人の将兵を動員して、豊臣秀吉による【備中高松城水攻め】に参戦。
その功績で、いきなり備前・美作・備中の半分の計50万石の大大名になっています。

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秀家は小さい頃から温厚で、同時に利発さも持っていました。
そのため秀吉にも大層気に入られ、養女の豪姫をお嫁さんにもらっています。

豪姫は元々前田利家の娘だったので、前田家との縁もできました。
これがずっと後になって秀家を救うことになります。

秀家の「秀」の字も秀吉からもらったものです。

 

27歳の若さで五大老就任

そんな超絶お坊ちゃまの秀家は、この時代で身長170cmを超えていて、さらに美形でもあったそうで、まさにイケメンの代表みたいな人でした。

頭も良かったようで、朝鮮の役では二回とも渡海し、武功と築城の両方で功績を挙げています。
この功績により、五大老の一人にも選ばれました。

ちなみに五大老(ついでに五奉行)のメンバーと年齢・石高はこんな感じです。

【五大老】
徳川家康(57歳)240万石
前田利家(61歳)80万石
宇喜多秀家(27歳)57万石
上杉景勝(44歳)120万石
毛利輝元(46歳)120万石

【五奉行】
前田玄以(60歳)5万石
浅野長政(52歳)22万石
石田三成(39歳)19万石
増田長盛(54歳)20万石
長束正家(不明)12万石
※秀吉死去の1598年当時

家康や利家など、老練な武将たちに囲まれ、27歳の宇喜多秀家が名を連ねているだけで凄まじい。
秀吉の愛着っぷりがわかりますね。

ちなみに秀吉お気に入りの若い衆といえば、穂井田元清の息子・毛利秀元も14歳の初陣【文禄の役】で、いきなり毛利軍3万の総大将に任命されています。
秀吉の鶴の声で総大将に任命されたのでした。

この方は毛利元就の孫にあたりますので、毛利輝元とは従兄弟になりますね。

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関ヶ原の戦い

さらに注目していただきたいのが五奉行の石高。
相当低く抑えられていたことが見てとれます。

秀吉生存の頃は、その政治力を遺憾なく発揮できたでしょうが、実際の合戦となれば徴兵能力が五大老と比べて苦しくなるのは必然です。

そんなわけで秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起きると、秀家はもちろん西軍につき本戦を迎えるのでした。

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秀吉の子飼い(福島)と、秀吉お気に入りの五大老が戦うって……豊臣政権の悲哀がありますね。

しかし、同じく秀吉一門のはずの小早川秀秋が東軍に鞍替えし、それだけでなく新たな四武将が裏切ったため、西軍は崩壊。
秀家の奮戦は全くの無駄に終わってしまいました。

あまりの怒りのため「あのアホ(秀秋)をなます斬りにしてくれる!」と叫んでいたそうで。
秀秋は、もともと東軍だと疑われていたので、秀家にしてみれば「アイツ、マジで裏切りやがった、ガチかよ!」というところでしょうか。

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彼が激情を露わにしたエピソードはこれだけですから、ホントにこのときはキレてたんでしょうね。
普段穏やかな人を怒らせたらアカン。

ちなみに新たな裏切りの四武将とは

・赤座直保
・小川祐忠
・朽木元綱
脇坂安治

です。

このうち脇坂だけが事前に東軍への連絡をしっかりしていたとして御家は存続します。
他は改易や減封となりました。

 

八丈島への流刑で済んだ

家康による戦後処理では、宇喜多家も当然処罰を食らいました。

家は改易となり、秀家は関が原から脱出した後、薩摩へ落ち延びます。そこで島津家の庇護を受け、しばらくは隠れ住むことができました。

が、元々家康から目をつけられている薩摩です。
いつの間にやら噂が広まってしまい、秀家は出頭せざるをえなくなりました。

本来であれば打ち首になってもおかしくない状況でしたが、嫁の兄・前田利長が口添えしてくれたため、流刑で済むことになります。

流された先は八丈島。
現代の船でも10時間かかるのですから、当時はもっと時間がかかります。

無事にたどり着けるかどうかも怪しかったでしょう。
しかし、秀家は幸運にも無事八丈島に上陸することができました。

 

嫁さんからの仕送りあってリア充離島ライフ

それでもやはり流刑先ですから、生活は豊かとはいえません。

前田家や旧臣たちがこっそり仕送りしてくれたので、食うや食わずとまではいかなかったようですが、それまでのお坊ちゃま暮らしからするとキツかったでしょうね。

奥さんの豪姫はこのとき実家に帰され、その代わりといわんばかりに医者やお手伝いさんを行かせています。
仕送りも豪姫の指示だったそうですから、夫婦仲は良かったんでしょうね。

八丈島の水が合ったのか、秀家は流刑後50年近く長生きします。
享年83歳という当時にしてはかなりの長寿で、江戸では四代徳川家綱の時代になっていました。

もしも秀家が罪を許されていたら、戦話の好きな家光に召し出されていたかもしれませんね。
立花宗茂とかも話し相手になってますし。

激動の前半生と穏やかな流刑先、どちらが良かったかはわかりませんが、少しでも心穏やかに過ごせていたらいいですね。

ちなみに父ちゃんの非情な謀殺っぷりをご覧になりたい方は以下の記事へどうぞ。

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【参考】
国史大辞典
『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
宇喜多秀家/wikipedia

 



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