巷には「蛙の子は蛙」という言葉がある一方、中には「アナタたち本当に親子ですか?」と疑いたくなるようなケースもあります。
今回はどちらかというと「鳶が鷹を生む」に近いお話です。いや、親も親である意味スゴいんですけど……。
明暦元年(1655年)の11月20日、八丈島(東京都)で宇喜多秀家が亡くなりました。
この人は謀殺王として名高い宇喜多直家の息子。
父は暗殺と謀殺を繰り返していたことで知られますが、そうなると息子の秀家も毒殺暗殺が得意だったのか?と思いきや、まったく逆タイプの人でした。
※文中の記事リンクは文末にもございます
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
親とは似ても似つかぬ可愛らしい宇喜多秀家
秀家が家督を継いだのは10歳のとき。
あまりにもお坊ちゃまらしいお坊ちゃまだったので、あの直家が病気になって心配して「私が死んだら、息子をよろしくお願いいたします」と秀吉に申し入れているくらい、親とは似ても似つかない子供だったそうです。
いや、これはむしろ直家に人情家の面もあったという深イイ話に……なりますかね?
-
-
宇喜多直家(戦国の謀殺王)は本当に謀将か?没落の身から息子は五大老へ
続きを見る
家督をついだ秀家は、小学5年生で1万人の将兵を動員して、豊臣秀吉による【備中高松城水攻め】に参戦。
その功績で、いきなり備前・美作・備中の半分の計50万石の大大名になっています。
-
-
清水宗治と備中高松城の水攻め~戦国時代に武士の鑑とされた切腹劇
続きを見る
秀家は小さい頃から温厚で、同時に利発さも持っていました。
そのため秀吉にも大層気に入られ、養女の豪姫をお嫁さんにもらっています。
-
-
豪姫(利家の娘で秀吉の養女)イケメン武将・秀家に嫁ぎドラマな人生を送る
続きを見る
豪姫は元々前田利家とまつの娘だったので、前田家との縁もできました。
これがずっと後になって秀家を救うことになります。
秀家の「秀」の字も秀吉からもらったものです。
-
-
豊臣秀吉 数々の伝説はドコまで本当か? 62年の生涯まとめ【年表付き】
続きを見る
-
-
前田利家(織田家の重臣)血気盛んな槍の又左は加賀百万石をどう築いた?
続きを見る
27歳の若さで五大老就任
そんな超絶お坊ちゃまの秀家は、この時代で身長170cmを超えていて、さらに美形でもあったそうで、まさにイケメンの代表みたいな人でした。
頭も良かったようで、朝鮮の役では二回とも渡海し、武功と築城の両方で功績を挙げています。
この功績により、五大老の一人にも選ばれました。
ちなみに五大老(ついでに五奉行)のメンバーと年齢・石高はこんな感じです。
【五大老】
徳川家康(57歳)240万石
前田利家(61歳)80万石
宇喜多秀家(27歳)57万石
上杉景勝(44歳)120万石
毛利輝元(46歳)120万石
家康や利家など、老練な武将たちに囲まれ、27歳の宇喜多秀家が名を連ねているだけで凄まじい。秀吉の愛着っぷりがわかりますね。
ちなみに秀吉お気に入りの若い衆といえば、穂井田元清の息子・毛利秀元も14歳の初陣【文禄の役】で、いきなり毛利軍3万の総大将に任命されています。
-
-
毛利秀元(元就の孫)は初陣【文禄の役】で毛利軍3万の総大将を務めた智将也
続きを見る
秀吉の鶴の声で総大将に任命されたのでした。
この方は毛利元就の孫にあたりますので、毛利輝元とは従兄弟になりますね。
さらに注目していただきたいのが五奉行の石高。
相当低く抑えられていたことが見てとれます。
秀吉生存の頃は、その政治力を遺憾なく発揮できたでしょうが、実際の合戦となれば徴兵能力が五大老と比べて苦しくなるのは必然です。
※続きは【次のページへ】をclick!