宇喜多秀家

宇喜多秀家/wikipediaより引用

宇喜多家

宇喜多秀家は27歳で豊臣五大老に抜擢され~意外と長寿な84年の生涯

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太閤秀吉の死

当時は秀吉の下で天下統一事業が推し進められていた時期。

戦乱は徐々に落ち着きを取り戻し、合戦だけでなく領国経営の比重も高まりつつありました。

戦国大名の中でも秀家は若い世代であり、この新しい価値観にも順応していったのでしょう。

例えば新田開発で、石高の向上にも務めました。

児島湾に堤防を築いて干拓したことから、そこは今も「宇喜多堤」と呼ばれているとか。

しかし、ノンビリと領国経営している場合でなくなります。

慶長三年(1598年)8月。

豊臣秀吉が亡くなったのです。

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三ヶ月ほど前、秀家は五大老に指名されておりましたが、それは幼い頃から見込んできた秀吉の遺言だったのでしょう。

「ワシが目をかけたように、今度は秀頼の成長を見守ってくれ」

秀家は当時まだ26歳の若さでしたので、秀頼の成長後も長く政権に留まってくれる可能性は高い。かなり信用されていたことが想像されます。

そして秀家にしても、その意図を十二分に理解していたでしょう。

問題は、思いもよらぬ方向からやってきました。

他ならぬ自身の家臣たちの間で【宇喜多騒動】と呼ばれる御家騒動が起きてしまうのです。

 

宇喜多騒動の始まり

事の発端は、家臣同士で起きた諍いでした。

慶長四年(1599年)、重臣だった戸川達安と岡貞綱らが、秀家の側近・中村次郎兵衛の処分を求めました。

達安と貞綱は直家の代から仕えていて、次郎兵衛は前田家から豪姫に付き従って来た人。

いかにも対立しやすい構図だったことに加え、豊臣秀吉の影響のせいか、秀家も豪奢を好むタイプであり、何かとうるさい達安らを遠ざけ始め、対立に拍車がかかりました。

豪奢とは、例えば何をしたのか?

・自分の趣味のために増税した

鷹狩りのために鷹を100羽飼い、その世話係を300人召し抱えた

・鷹の餌にするため、領民に飼い犬を差し出せと言った

・豪姫が病気になったとき「仏に祈っても治らないから皆デウスに祈れ」とキリシタンへの改宗を強制した

こうした話には尾ひれがつきやすいものですが、なんだか傲慢であると同時に、リアリティある記述ですよね。

そして他に考えられる要因が「宗教間での対立」です。

秀家が比較的キリシタンに寛容だったのに対し、達安らは日蓮宗徒。

派閥全体を見渡すと、日蓮宗徒もキリシタンも双方入り混じっていたので、あくまで一要素の域を出ませんが、中には「ヤツが◯◯派なら、俺はその逆につく」なんてタイプもいたかもしれません。

騒動の結果、どうなったか?

身の危険を感じた次郎兵衛が、古巣の前田家へ逃亡。

達安・貞綱らは、大坂の宇喜多邸を占拠するという事態に発展します。

こうした動きに対し、秀家は「達安が何か企んでいるに違いない!」と決めつけ、暗殺を図りました。

なんだか急に謀殺王の父・直家を彷彿とさせますよね。秀家のイメージからかけ離れた行為ですが、父親が父親だけに、非常に生々しい。

しかも、いとこの宇喜多詮家(坂崎直盛)が達安に味方したため、あわや一戦という事態へ発展しかけるのです。

 

有力家臣達が次々に他家へ

当時、慶長四年(1599年)はまだ関ヶ原の前。

公的には「秀頼が成長するまで、五大老・五奉行らが協力して政治を行っていく」時期ですから、宇喜多家の騒動は無視できないものとなっていきます。

騒ぎの収集をつけるべく、まずは家康の重臣・榊原康政と、大谷吉継が調停に乗り出してきました。

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康政の側室が宇喜多家の家臣・花房氏と縁戚だったこと。

当時は伏見で留守居当番だったこと。

そういった理由から康政が乗り出してきたようで、花房氏の当主・正成も直家の代から仕えてきた人でした。

どちらかというと守旧派に近いながら他家の人間である榊原康政と、秀吉の信任厚く中立的な大谷吉継が間に入れば、感情的なヒートアップは避けられると考えられたのかもしれません。

しかし!

この調停もまた長引き、康政の当番期間が終わっても決着が付かず、しまいには家康に叱られてしまいます。

「お前に調停を任せはしたが、自分の領地を放り出してまでやれとは言っていないぞ!」

やむなく康政は宇喜多騒動から手を引き、吉継一人で当たることとなりましたが、やはり無理があったようです。

人格者かつ優秀な武将であっても、いかんせん五大老のように大きな宇喜多家を部外者がまとめるには荷が重すぎました。

最終的に家康が処分を決めることとなります。

もはや仕方ない展開でしょう。

結果、戸川達安・岡貞綱など、大坂の宇喜多邸に立てこもった者たちは他の大名へ預けられるか、蟄居処分。

また、花房正成も宇喜多家を出奔し、それに続いて一門衆や他の家臣たちも宇喜多家を去っていくことに……。

宇喜多家の家臣団は、かなり力を削がれてしまうのです。

ちなみに、娘の豪姫が嫁いでおり、積極的に動いていてもおかしくない前田利家や、その子・前田利長による積極的関与はみられません。

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宇喜多騒動が慶長四年のいつ頃だったのか。ハッキリしていませんが、利家は同年3月に亡くなっていて、動きたくても動けなかった可能性が高そうです。

利長も、既に家康の家臣である康政が動いていて、家康本人も関わったとなれば、横から口出しはできなかったことでしょう。

いずれにせよ有力な秀吉派の一つ・宇喜多家の勢力は大いに弱まったわけです。

得をしたのは誰か?というと……。

翌年の慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発しました。

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