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【加賀一向一揆】
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勝家を筆頭に織田軍の主力メンバー出動
時代が少し進み、織田信長が朝倉家を滅ぼすと、加賀平定のため一向一揆と正面から戦うことを決めます。
天正四年(1576年)、まず織田家の鬼柴田こと柴田勝家が加賀方面の司令官に任じられました。
勝家の幕下として配されたのは、前田利家や佐々成政といった錚々たるメンバー。
信長の本気度も伝わってきますね。
ただし、一揆勢の向こう側では軍神・謙信が存命中ですので、勝家たちにとっては
「一向宗だけでなく同時に謙信も相手にするんだぞ」
という意味も持っていました。怖い(´・ω・`)
実際、天正5年(1577年)9月に、織田軍は上杉軍と激突。
【手取川の戦い】と呼ばれ、謙信相手にボコスコにやられてしまいます。
さすがに戦の神には簡単には勝てない――。
そんな絶望感もチラついていたでしょうが、その謙信が翌天正6年(1578年)4月に亡くなってしまい、織田信長の超悪運が発揮されるのでした。
平定後の勝家「北陸衆」として馬揃えに参加
恐怖・上杉軍のプレッシャーから解放された柴田勝家たち。
それから約2年後の天正八年(1580年)11月17日に一向一揆を平定します。
信長も嬉しかったことでしょう。
一向一揆平定の二年後に行われた京都御馬揃えでは、【北陸衆】というグループの先頭で勝家を参加させています。
ちなみに石川県には「道の駅一向一揆の里」という場所があるそうで。
物騒なネーミングですが、したたかな印象も受けますよね。
北陸の方たちの気質はいまいちわからないんですが、なんせ当時、自治の国を作ってしまうのもすごいことですよね。
もしかしたら勝家たちも統治に苦労したのかなぁ……なんて、しみじみ思ったりしてしまいます。
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長月 七紀・記
【参考】
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
加賀一向一揆/wikipedia