本能寺の変が起き、絶大なるリーダーがこの世を去ると、残された織田家中は権力が二極化。
柴田勝家と羽柴秀吉がそれぞれの旗を掲げ、その下に各武将が集い、ついに両者は賤ヶ岳近辺で対峙したのであった。
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後に【賤ヶ岳の戦い】と称されるこの戦い。
文字通り、合戦のポイントは賤ヶ岳だが、それは、琵琶湖北東のほど近いところに位置する、標高421mの山である。
さらにその北東には余呉湖もあり、両湖を境界線とするようにして柴田軍と羽柴軍は陣を張り、それぞれの拠点を要塞化させていた。
先に動いた方が負け。
そして事態は膠着。
果たして突破口はいかにして開かれるのか。
勇将として知られる佐久間盛政、またの名を鬼玄蕃の出番である――。
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戦線膠着
◆賤ヶ岳の戦いって、豊臣秀吉、柴田勝家、前田利家ばかりがクローズアップされがちではありませんか?
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そこでまずは両陣営の顔ぶれをご確認しておきたいと思います。
【羽柴軍】豊臣秀吉、豊臣秀長、丹羽長秀、織田信雄、黒田官兵衛、前野長康、中川清秀、高山右近、桑山重晴、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元、石田三成、大谷吉継、一柳直盛
凄まじいですね。
秀吉側には、いわゆる七本鎗が入っているため武将の数が多いですが、当初の両軍は実力で拮抗していたんですよね。
だからこそ互いに動けなくなり……。
信孝再挙兵
◆もともと柴田勝家さんを後見人にして織田信孝さんも天下人になる気マンマンだったんですよね。
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それがいつの間にやら、家臣の秀吉に上から目線で押さえつけられて、我慢できるワケがありません。
ただ、やはりお坊ちゃんだけに見通しが甘かったのでしょう。賤ヶ岳にいる秀吉の機動力をナメきっていた可能性があります。
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中国大返しを間近で見たはずなのに……。
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