こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【岡左内】
をクリックお願いします。
安達ケ原

◆蒲生氏郷さんが東北会津の地を任されたとき、「いくら石高が高くとも、都から離れすぎている」と嘆いたのは有名な話です。
政治の中心、経済の中心から遠く離され、大名としての先の展望がなくなった――というワケですが、個人的には文化の中心から離れたことも相当辛かったんだろうなぁ思います。
蒲生さんは、当時、文化人として最先端と称された利休七哲の筆頭とされていたのです。
やはり信長さんに気に入られるほどだったのですから、合戦だけじゃなく文化面でも才能に長けていたんすねぇ。
創作料理

◆伊達政宗と蒲生氏郷は犬猿の仲でした。
政宗にとって黒川城(若松城・会津城・鶴ケ城とも)は、必死の思いで蘆名から奪いとったシンボル。
そこに氏郷が入ってきて城を近代的に建て替え、城下町も発展させたのですから面白いワケがありません。
天下人というより「会津の支配者」になりたかったんすね。
-

政宗の狙いは天下じゃなくて会津だった? なぜ秀吉に逆らってまで執着したのか
続きを見る
この2人は後に、大きな騒動を引き起こしていくのでした……。
あわせて読みたい関連記事
-

蒲生氏郷の生涯|信長に期待され娘を与えられたエリート武将の事績に注目
続きを見る
-

伊達政宗の生涯|奥州の独眼竜と呼ばれた70年の事績を史実で振り返る
続きを見る
-

怪談話『雨月物語』著者の上田秋成~鹿島稲荷の予言を超えて長生き
続きを見る
-

120万石から30万石へ地獄の大減封!収入75%減となった上杉家はどう対処した?
続きを見る
-

政宗の狙いは天下じゃなくて会津だった? なぜ秀吉に逆らってまで執着したのか
続きを見る
著者:アニィたかはし
文:五十嵐利休
書籍版『戦国ブギウギ』です!






