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最後の箱根駅伝 ゴールの先には戦場が…幻の第22回大会(昭和18年)を振り返る

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正月スポーツ、最大のイベント「箱根駅伝」。

大手町・読売新聞社前を出発したランナーが、東京~横浜~湘南を駆け抜け、峻険の箱根までタスキを運び、再びその道を帰ってくる姿は感動そのもの、近所にお住まいの方は沿道で声援を掛けた経験もおありでしょう。

始まりは日本初のオリンピック選手・金栗四三の発案であり、第一回大会から数えると約100年の歴史を誇ります。
まさしく日本最高峰の駅伝大会です。

しかし、そんな光景が“当たり前ではない”時代がありました。

昭和16年。
戦争激化の影響により、中止に追い込まれたのです。

では、選手たちは諦めたのか?
と言ったらそうではありません。

若い彼らが必死に知恵を絞り、長距離以外の選手もかき集めて開催された【最後の箱根駅伝】。

幻の箱根駅伝とも呼ばれる第22回大会は、戦火激しくなる昭和18年に開かれたのです。

靖国神社から始まり、靖国神社で終わり、そしてその先に待っていたのは……若きランナーたちが切り拓いた当時のコースを振り返ってみましょう。

 

駅伝大会の開催など言語道断

第一回の箱根駅伝は、大正9年(1920年)に開催されました。
雪が降り、気温は零下まで下がるという真冬の箱根路を、陸上青年たちがタスキを繋ぐ――。

そんな素晴らしい物語は毎年行われていたワケですが、時代が大正から昭和に入ると、だんだん戦争の影が迫るようになります。

そして昭和16年(1941年)。
戦争激化のため、ついに箱根駅伝は中止となったのでした。

当時箱根では、物資や兵器輸送、戦車の実験が行われ、民間人の立ち入りが制限されていました。
駅伝大会の開催など、言語道断というワケです。

他にも、スポンサー報知新聞社の経営難や、空襲への警戒など、複合的な理由があったとされます。

『それでも、何としても、駅伝をしたい』

ランナーたちの願いを受け、箱根駅伝の代わりに開催されたのが、東京と青梅の間を走る駅伝大会でした。

ただし、名称は変えられています。
「駅伝」という名を冠すれば、軍部に目を付けられてしまうからです。

【東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会】

馴染みにくい大仰な名前となってしまいました。

参加する青年たちの気持ちは、もちろん複雑です。
走ればよいというものでもありません。

実際、青梅での駅伝は2回しか開催されませんでした。
なぜなら健脚を誇る青年たちも戦地へ招集され、その身を投ずることになったのです。

コースだけはなく、ランナーも消えてしまいました。

実は昭和14年(1939年)の時点でも、「召集令状」、いわゆる赤紙を懐に入れて箱根駅伝を走るランナーがいました。

その選手は、
「精一杯走ったから悔いはありません」
と言うと、涙をにじませながら数日後、入営しました。

戦争の影は、スポーツ青年の身にも迫っていたのです。

 

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もう一度、あの箱根路を

戦況の拡大と共に、陸上競技はスポーツではなく【軍事教練】とされるようになりました。
走者は、銃と砂を詰め込んだ背嚢を背負い、ゲートル(すねに巻く布)を着用し、歩兵の軍装で走るのです。

ゲートルを巻いた陸軍兵士/wikipediaより引用

大会名は【報国団武装行軍競争】とされました。

走者は十数人ごとに、行軍さながらに移動します。陸上競技とはかけ離れたものなのです。
軍装での走行は苦痛に満ちたものであり、スポーツの喜びはそこにはありませんでした。

「陸上競技部」も、「陸上戦技部」という名に変更せねば、活動を認められません。
一部競技は廃止され、投擲系の競技は「手榴弾投げ」に変更されました。

スポーツウェアも、粗末なもの。金属を用いるスパイクは使えず、手ぬぐいは「スフ」という人造絹糸のものになり、ウェアも粗いものに限られてしまったのです。

昭和17年(1942年)。
学生の徴兵猶予もなくなり、予科と高等学校も徴兵対象となりました。

「もはや戦地に向かい、死ぬしかないのか」
ランナーたちの胸に絶望がよぎりました。
それと同時に、箱根駅伝の伝統が自分たちの代で消えてしまう恐怖もわいてきました。

「正月に箱根路を、タスキをつないで走る」
そのことに憧れ、ロマンを感じていたのですから、無念の極み。
天寿を全うできた走者の中には、亡くなるまでその無念を抱き続けた人もいたそうです。

ましてや招集されて、戦地に散った青年の無念はいかばかりでしょうか。

 

「距離の測定は尺貫法を使うように」

関東学聯に所属する学生たちは、昭和17年の夏から軍部と文部省に交渉を開始しました。

しかし、彼らの熱意は一蹴されます。

どうすれば箱根を走れるのか?
学生たちは知恵を絞りました。

「戦勝祈願という名目で走ればよいのではないか」
「コースを箱根と靖国神社の往復にすればどうだろう?」

軍部はこの案を聞くと、態度を軟化させました。

「紀元二千六百三年 靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」

そんないかめしい大会名にすることで、やっと開催許可を得たのです。

しかし、許可は得たものの、報知新聞社からの資金援助は期待できません。準備は難航しました。

準備を進めていると、軍部が口を出して来ました。
「距離の測定は尺貫法を使うように」

明治以来定着したメートル法に馴染んだ学生にとって、これは厳しいものでした。

彼らは昼間、尺貫法で距離を計測。
夜中にこっそりメートル法で計測し直すことにしました。

軍部に根回しし、光る目を憚りながらでなければ、開催もできない状況でした。
それでも箱根を走りたい学生たちは、あきらめなかったのです。

 

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箱根路を走れる! しかし選手たちは苦しく……

その年の秋、箱根を走れると聞いてランナーたちは喜びました。

しかし、多くの大学が選手集めに苦労しました。
集めようにも、多くのランナーたちが、既に戦地に送られていたのです。出場経験のある大学でも、参加を見送らざるをえない場合が多数ありました。

やっと参加した大学も、短距離走や投擲競技といった別競技の選手をかきあつめ、準備も練習もろくにできないような状況。
物資が統制され、食料はおろか暖房もないような中で、彼らは練習を続けたのです。
不足した栄養を補うため、栄養剤を注射した学校もありました。

練習期間が限られ、カロリーすら十分に摂取できない中、どれほど厳しかったことでしょう。




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それでも彼らは箱根を駆ける喜びのために、鍛錬に励んだのです。

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