金栗四三

金栗四三/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

日本初の五輪マラソン選手・金栗四三|初の箱根駅伝も開催した生涯

2024/11/12

昭和58年(1983年)11月13日は金栗四三が亡くなった日です。

「かなくりしそう」という少し変わった名前ですが、言われなくても皆さんご存知ですね。

2019年大河ドラマ『いだてん』の主人公であり、中村勘九郎さんが画面の中でひたすら走っていた姿はいまだ印象深いでしょう。

彼こそ、日本初の五輪マラソン選手であり、そのストックホルム大会ではレース途中に失踪し、約55年後にゴールをするという偉業(?)を果たした方であります。

国内に目を向ければ箱根駅伝の創設者としても知られますね。

まさしく日本長距離走の父親的存在であり、先駆者だけに、その道程は決して平坦ではありませんでした。

本稿で、金栗四三の生涯を振り返ってみましょう。

金栗四三/wikipediaより引用

 


小学生の頃から往復12キロ

金栗四三が生まれたのは明治24年(1891年)8月20日のこと。

熊本県玉名郡春富村(現・和水町)にて、男4人女4人の8人兄弟で7番目として誕生しました。

父の信彦は、胃腸が弱い虚弱体質で、金栗の誕生前に、家業だった酒造業を辞めております。

実は金栗本人も、父同様に幼い頃は虚弱体質でして、彼の夜泣きに家族は手を焼いていたと言います。

そんな金栗も、5才頃には人並みに健康な子供になり、祖母に甘えるやんちゃ坊主になっていました。

川で魚を釣り、田んぼで泥鰌(どじょう)をすくう日々。

元気いっぱいで気のいい少年である反面、負けん気も強く、もしも悪事に興味を持ったらいけない。

と、人の好い父母やきょうだいに見守られ、のびのびと育ちました。

いわゆる天才アスリートの歴史となりますと、幼少期からそれを匂わせるエピソードがあります。

では、小学生の頃の金栗四三はどうか。

現代から振り返って、まず『時代だなぁ』と感じられるのは、冬は「藁草履(わらぞうり)」、夏は裸足で小学校へ通っていたことでしょう。

元が虚弱体質だったことで、運動にはまるで自信のない金栗。

彼は、片道6キロ、往復12キロの道のりを毎日走り続けました。

小学生にとってはかなりの距離です。

はじめは苦痛でしかなかった通学路も、いざ走り出すと誰よりも早く、学友たちは誰も彼に追いつけなくなります。

幼いころから金栗はあることに気づいておりました。

「ハーハ−」と呼吸すると苦しいけれど、吸うとき2回、吐くとき2回のリズムをとると、楽になる――。

いだてん小僧の才能は、こうして静かに育まれていくのでした。

 


海軍兵学校の夢やぶれて東京へ

小学校を卒業した金栗は、学友2人と共に、地区内では初となる旧制玉名中学への進学者となりました。

その頃から金栗は生真面目な努力家で、特待生になるほど成績優秀。

反面、意外にもスポーツ万能ではなく、例えば体操や剣道は苦手でした。

今の時代でも、脚が速くても球技が苦手という方はおりますよね。そんなタイプかもしれません。

また中学時代は、食べ物の好き嫌いについて叱られたことがきっかけで、慣れない食べ物や嫌いな食事も我慢するよう心がけるようになりました。

これはのちに海外遠征する際、役立つこととなります。

旧制中学の卒業後は、海軍兵学校を目指しました。

が、結膜炎のせいで身体検査に引っかかって不合格に。

失意の金栗が目を向けたのは、中国大陸です。

日清戦争・日露戦争に勝利して勢いが上向きだった日本。

当時の若者にとって、中国大陸で雄飛を夢見ることは特別変わったことではありません。

大陸留学生の資格を得るため、金栗は“受験に慣れておこう”と東京高等師範学校(現・筑波大学)も受けてみます。

と、ここで無事に合格。

次はいよいよ大陸だ!と意気込んだところで、兄から諭されます。

「せっかくだから師範学校で立派な教師を目指したらどうだ」

こうした経緯を経て、金栗は明治43年(1910年)、東京高等師範学校へ入学するのでした。

東京文理科大学附置時代の東京高等師範学校/wikipediaより引用

 

長距離走大会で嘉納に褒め称えられる

東京高等師範学校では、毎年春と秋、長距離走大会がありました。

それぞれ3里(約12キロ)、6里(約24キロ)を走るレースです。

入学したばかりの金栗は春は25位でしたが、これはスタート前にトイレへ行きたくなったのが原因のようで、秋は一気に3位へと飛躍します。

普通の学校でしたら、3位だって別に大騒ぎするほどの記録でもないでしょう。

が、東京高等師範学校は様々なスポーツに力を入れている学校であり、一年目では快挙とも言えるものでした。

※1920年の第1回箱根駅伝では東京高等師範学校が優勝している(ただし参加校は他に明治・早稲田・慶応の計4校)

3位入賞を果たした金栗は、校長から表彰されます。

このときの校長こそ、柔道界の伝説であり、日本の近代スポーツ界を牽引した、嘉納治五郎でした。

嘉納治五郎/wikipediaより引用

予科生にもかかわらず3位入賞を果たした金栗を、嘉納は褒め称えました。

そしてこの出会いは、彼の運命を変えることになります。

しかし、このとき意気揚々として郷里に手紙を書くと、母はかえって心配するようになってしまいました。

母心さながらに、幼き頃、身体の弱かったことを案じていたのでしょう。

これ以来、金栗は好成績をあげても実家に知らせることはありませんでした。

 


徒歩部へ

明治44年(1911年)、金栗は予科を終えて本科へ進みます。

そして本科へと進んだ生徒は原則、何らかの部活に所属せねばなりません。

迷った末、金栗は徒歩部(後に陸上部)をチョイス。

・徒歩部はまだ貧弱だから、自分が鍛えてやろう

・長距離走で好成績を収めたからには、持久力に自信がある

・徒歩部ならば道具がいらない

そうした理由からでした。

もしも徒歩部に入らなければ“マラソンの金栗”は生まれなかったことでしょう。

徒歩部に入った金栗は、人より二倍練習することを自らに課し、早朝から練習に励みました。

気がつけば誰も彼には敵わなくなっており、そこで鍛えたスタミナのおかげか、本科に進んで一年後、春の長距離走で見事優勝を果たします。

長距離ランナーとしての才能が、ついに開花したのでした。

 

ストックホルム五輪予選に挑む

その年(1911年)の10月。

金栗は気になる新聞記事を読みました。

「第5回オリンピックストックホルム大会出場を賭けた国内予選を、11月18・19日の両日、羽田競技場で開催」

目を付けたのは、25マイルマラソンでした。

25マイルはおよそ10里(40キロメートル)です。

6里までは走ったことはあっても、さらに4里走れるかどうか。金栗は迷いましたが、思い切って参加することを決めました。

しかし、そう決めたのは、十月も半ば。予選会まで20日間とわずかしかありません。

必死に練習に励む金栗。

このとき「汗抜き」とうトレーニング方法を伝授されます。

体内の水分をできるだけ排出することで体を軽くするという方法でした。

金栗はこれを実践してみました。

が、どうにも喉が渇き、腹が減り、耐えられません。あまりの苦しさに砂糖水を何杯も飲むと、体がスッキリと軽くなりました。

以来、金栗は「汗抜き」はやめ、レース前に砂糖水も食事もたっぷりと摂取するようになります。

現在の箱根駅伝でもマラソンでも、途中で「水分補給」をすることは、健康面から考えても今や常識ですよね。

しかし、100年前の日本スポーツ界にそんな科学的見地があるワケもなく、金栗は奇遇にも自らの体験で最適の方法を選んでいたのでした。

偶然とはいえ、様々な試行錯誤の中から見つけた方法だからこそ実践に強い。

そんなことが窺えるエピソードですね。

 

荒天の予選で世界記録を樹立した

明治44年(1911年)11月19日、予選当日。

その日はあいにく小雨まじりの悪天候で、容赦なく吹き付ける風が体温を奪っていきました。

羽田運動場内にある羽田球場/wikipediaより引用

予定より一時間ほど到着が遅れた金栗は、パンをかじって生卵二つを飲み込み、スタート地点へ。

今のようにスポーツウェアもない時代です。

皆バラバラの服装で、金栗の足下(あしもと)も黒足袋でした。

泥まみれの中、選手たちはついに走り出しました。

慣れない遠慮からか。

スタート直後から一団の後方につけていた金栗は、やがて誰よりも速く走りたいという欲求が湧いてきます。

脚に力を入れてギアをチェンジ。次々と他の俊足ランナーたちを抜き去ります。

そして残り1キロメートル地点。

金栗はライバルと肩をぶつけ合いながら走り、ついに一位でゴールインしました。

こわばった体で閉会式にのぞむと、驚くべきことが告げられました。

「世界記録達成!」

なんと金栗は、当時の世界記録を27分も縮めたのです。

とはいえ、ここに注意点があります。

当時のマラソンは「大会ごとに距離が違う」ということがありました。

現代からすると信じられないことですが、26.22マイル(42.195キロ)に固定されるのは1924年のパリ大会のこと。

1908年のロンドン大会は26.22マイル、そしてストックホルム大会は24.98マイルです。

つまり2キロメートルほどの差があります。

金栗本人ですら、この好記録は信じがたい結果でした。

そして、この奇跡に浮かれることはなく、冷静に分析するのです。

そのときの予選では、途中で飢えや渇きに耐えかねて、パンを買おうとしたり、田んぼの水を飲んだりした者すらいました。

明暗を分けたのは、スタート前のカロリー摂取ではないか――。

要は「適切な量の食事を取ったのが勝因だった」と、金栗は結論付けます。

もうひとつ。足袋の存在がありました。

レース中、足袋が破けたことには難儀しました。

あれさえなければもっと速く走れたはずだ。

金栗は、まだ自身の成績が伸びることを予感していたのですが……。

 

ストックホルム五輪への参加と本番

明治45年(1912年)早春、金栗は嘉納治五郎から呼び出されました。

「長距離では金栗君、短距離は三島弥彦君で、五輪に出場してもらうことに決まった」

世界記録樹立を果たした金栗が出場するのは、ごく当然のことでした。

が、ここで金栗は、一度、申し出を断っています。

彼の真意は不明ですが、それでも嘉納は、まるで三顧の礼を尽くすよう説得に当たります。

「金栗君、日本スポーツ界のためにも“黎明の鐘”となってくれ!」

こう説得されて、金栗は感激し、心が動かされました。

やるだけやってみようか。自分だけじゃなく国やみんなのためにもなるかもしれない……。

そう、考えたところでアタマの痛い現実もそこにはありました。

お金です。

地球の裏側ともいえるストックホルムまでの長い遠征費。

渡航費および5ヶ月にも及ぶ滞在費を、国は援助しないというのです。

金栗は苦しい思いで、郷里に援助を求める手紙を出しました。

1912年ストックホルム五輪のポスター/Wikipediaより引用

手紙を受け取った金栗の兄は、一も二もなく弟の申し出を快諾しました。

さらには息子が長距離走に挑むことを反対していた母に加え、郷里の人々までもが彼を激励し、援助してくれたのです。

金栗は郷里の誇りとなっていました。

これからは日本の近代スポーツを担う人材となって欲しい――。

そう考えた人々は、彼のために遠征費用を捻出してくれたのです。

感激した金栗は、以前にも増して日々の練習に励むようになりました。

破れた足袋を縫い直しながら、毎日ひたすら走りました。

大変なのは、やはり準備です。

長距離の練習はもちろん、合間の時間に礼服を新調したり、洋食店に通って西洋料理のテーブルマナーを学んだり、さらには英語も習わねばなりません。

嘉納治五郎の盟友で、ストックホルム五輪の日本選手団監督となる大森兵蔵に、アメリカ出身で帰化した妻・安仁子がおりました。

英会話は、この安仁子に習いました。

かくして金栗は、日本中の期待を背負いながら、ストックホルムに向けて出発したのです。

 

海路でウラジオストク、シベリア鉄道で欧州へ

大正時代、ストックホルムへと向かうのはご想像どおり大変なことでした。

5月16日、新橋駅を出立。

金栗は遠征日記をノートに記し始めます。

神戸で船に乗り換えると、今度は海路でウラジオストクへ。そこからシベリア鉄道で、スウェーデンを目指します。

鉄道内では、食費を浮かせるため、安仁子が中心となって自炊をしていたというのだから、大変なことです。

自炊が中止となったときは、食堂車で安いメニューを味わいました。

一日中狭い車内でゆられる鉄道での旅。窮屈で、かなり大変なものです。

読者の皆さんも、移動だけでも疲れ果ててしまうのは、海外旅行で10時間規模のフライトをご経験されていればご理解いただけるでしょう。

全17日間の旅程を終え、金栗たちはようやくストックホルムへ到着するのでした。

カマ川にかかるシベリア鉄道の鉄橋(1910年代撮影)/Wikipediaより引用

 

ストックホルム到着 いよいよ五輪開幕へ

スウェーデンの首都・ストックホルム。

日本人にはほとんど縁のない北欧の国に降り立った金栗たちの前には、湖水輝く水の都の美しい景色が広がっていました。

1890-1900年頃のストックホルムの王立公園/Wikipediaより引用

ただし、宿舎は貧弱な建物で、さらに監督・大森は肺結核が悪化しているような状況。

金栗は監督に助言をもらうどころか、看病を手伝うような有様でした。

それでも大会本番を控え、金栗たちは練習に励みます。

ここで問題となったのが、入場プラカードの国名表記でした。

金栗は頑固に言い張りました。

「“日本”でよいじゃありませんか」

嘉納と大森はイヤイヤ……と遮ります。それでは誰も読めない、というわけです。

「ここはやはり“JAPAN”でしょう」

しかし金栗は「“JAPAN”なんてイギリス人が勝手に付けた名前だからダメだ」と頑固に言い張ります。

「ここはどうかね、“NIPPON”では」

嘉納が折衷案を提案すると、金栗もやっと折れました。

ちなみにこの表記はこの大会のみで、以降は“JAPAN”になりました。

ストックホルム五輪日本選手団の入場/Wikipediaより引用

かくしていよいよ競技が始まります。

短距離走にエントリーしていた三島弥彦の結果は以下の通りでした。

・100m 1次予選敗退
・200m 1次予選敗退
・400m 準決勝棄権

彼なりの全力の結果です。

400メートルでは準決勝進出を果たしたものの、体力の限界を迎えていました。

完全燃焼した満足感とともに、三島は棄権しました。

三島弥彦
日本初のオリンピック短距離選手・三島弥彦|大会本番での成績は?

続きを見る

 

レース中に突如消えた!?

7月14日、ついにマラソン競技当日となりました。

眠れぬままこの日を迎えた金栗。天気は快晴で、雲一つない日でした。

オリンピックスタジアム正門/photo by Derbeth Wikipediaより引用

13時半、地鳴りのような歓声を背に、金栗は走り出しました。

スタートの合図すら聞こえず、無我夢中で他の選手について走り出します。

郷里の家族を思い出し、がむしゃらに走る金栗。暑い日でした。さんさんと真夏の日射しがそそぎます。

15キロほど走ったとき、意外な声がしました。

「がんばれっ!」

「金栗!」

スウェーデンに滞在中の日本人の応援でした。

金栗は俄然やる気をだします。

しかし、26キロほどを過ぎたところで、体に異変が起きます。

力が抜けて、目がくらみ、経験したことのないような苦痛に襲われました。

熱中症でした。

意識がもうろうとした金栗は、ペトレという農家の庭に迷い込みました。

そして、そこにあった椅子にへなへなと座り込んでしまったのです。

驚いたペトレ家の人々は、ラズベリーのレモネードや食べ物を与え、金栗を親切に介抱しました。

言葉が通じないので、英語ができる近所の人を呼んできました。

「私は東京の大学生です……」

金栗は朦朧としながらも、そう名乗りました。

ちなみに金栗のあと、他の選手もペトレ家に休みに来ました。

走れなくなった選手たちが倒れ、まるで野戦病院のような騒がしさでした。

ペトレ家はこのときの御礼として、メダルを受け取ることになります。

そんな事情を知らない観客や大会を知る人にとって、金栗は「消えた日本人の謎」と化しました。

亡くなって亡霊になったとか、お茶とお菓子をごちそうになっていたとか、二人の美女に導かれて消えてしまったとか。

様々な都市伝説が生まれたのです。

 

過酷な条件で行われたレースで競技翌日に死者も

金栗は、なぜ倒れてしまったのでしょうか。

天候だけではなく、長旅の疲れ、極度の緊張……様々な要因があったのでしょう。

金栗は幸運であったかもしれません。

レース参加者の多くが棄権したばかりか、ポルトガル代表のフランシスコ・ラザロ選手は、競技翌日に急死しているのです。

スポーツ医学が未発達な当時は、現代よりはるかに危険な状況で競技が開催されており、当日がそうだった可能性は低くないでしょう。

今の我々は、こうした反省を経て、より安全な環境でスポーツを楽しむことができるのですね。

※実際、昔は部活中に水を飲ませて貰えずに熱中症で命を落とす若い学生さんもおりました(詳しいことは以下に関連記事がございます)

マラソン競技中に失踪した金栗四三、ペトレ家に救助され都市伝説となる

続きを見る

話をレース当日へと戻しましょう。

倒れた金栗の全身は、噴き出した汗が結晶となって、転々と白い模様となっていました。

ペトレ家の知人から用意して貰った服を着て、まだフラフラしながら宿舎に戻ると、怒り、打ちひしがれた様子の日本選手団の面々がいました。

監督の大森は、「いつまで待っていても日の丸がゴールしなくてね……」とガッカリした様子。

金栗はうなだれ、四年後の再起を誓うしかありませんでした。

金栗は敗因を冷静に分析しました。

1. 猛暑トレーニングの不足 / 予選は寒冷な秋であった

2. 練習と経験不足

3. スタートダッシュの失敗 / 外国人選手の勢いに圧倒され、ペースが落ちた

4. 足袋 / 外国人選手がゴム底の靴だった

5. 予選で世界記録を出したための慢心

6. 食物や生活環境の変化

7. 白夜による睡眠不足

多くの敗因がありました。

分析を終えた金栗は、むしろスッキリとした気持ちでした。

また次がある。悔しさと恥ずかしさをバネに、また頑張ろう。そう思えたのです。

嘉納は叱り飛ばすどころか、金栗にまた頑張ろうと優しい激励をしてくれました。

監督の大森は、肺結核が悪化し動けなくなってしまいました。

そのまま絶対安静を言い渡され、帰国できなくなったのです。そしてその後、夫人の親戚をたずねて行った先のボストンで客死していまいました。

金栗は、ストックホルムを出立する直前、ペトレ家の人々から食事に招かれました。

食事会は楽しく、なごやかな雰囲気の中で進んでゆきました。

このとき金栗は日本製の美しい小箱に、日本の紙幣を入れて御礼として渡しております。彼の律儀さを感じます。

欧州を見て回り、帰国した金栗を待っていたのは、激励の言葉と追試験でした。

五輪参加のため授業を欠席していた金栗は、一週間勉強に集中し、無事、試験に合格したのでした。

 

その後の五輪と箱根駅伝、女子スポーツ

目指せ、四年後のベルリン五輪!

金栗は、ストックホルムの屈辱を胸に、さらなる猛練習に励みました。

新たに外国の舗装道路を走ることや、炎暑を想定したトレーニングメニューも取り入れました。

足袋の改良、ドイツ語の学習、ベッドでの睡眠や洋食に慣れる訓練も、平行して取り組むほどです。

そして大正3年(1914年)、東京高等師範学校卒業の年となりました。

五輪の挑戦を目指し、教職に就くことは考えられません。

異例のことながら、教師への奉職を断り、「研究科」に籍を置くことになりました。

そして徒歩部に毎朝乗り込むと、盆正月も、雨の日も、雪の日も、練習に励む金栗。

常に全身真っ黒に日焼けしていました。

後進ランナーの育成や、スポーツ啓発にも取り組みました。

しかし、ベルリン五輪は第一次世界大戦の影響により、開催中止となってしまうのです。

次はアントワープ大会ですが、また四年間走るだけというのも、流石にどうかと金栗は悩みました。

そして嘉納に相談することにしたのです。

 

教師としての歩みと「箱根駅伝」

嘉納は、教師として指導する傍ら競技生活を続けたらどうかと言います。

そこで金栗は愛知一中に奉職しようと相談するのですが、「日本の金栗を愛知一中で独占はできない」と断られてしまいます。

最終的に金栗は、鎌倉にある神奈川師範学校へ赴任しました。

物分りよく優しい教師である金栗は、生徒からも人気。

ちなみにこのころ徴兵検査を受けておりますが、結果は甲種に届かない第一乙種。

身体能力が不適格なのではなく、その業績ゆえ、軍の判断で「スグに入営(軍に入ること)がないように」書き換えが行われていたようです。

神奈川師範学校からは、一年ほどで異動になりました。

日本のスポーツ界を担う人物が鎌倉にいては不便と考えた、嘉納による措置です。

次の赴任先は、独逸協会中学でした。

第一次世界大戦の敗北で、ドイツの評判は下落気味となっており、独逸協会中学も斜陽の学校とみなされていました。

しかし金栗が指導するようになると、活気が戻って来ます。

彼が顧問をつとめた徒歩部は、躍進著しいものがあったのです。

五年間にわたる独逸協会中学での日々は、指導者としての金栗にも充実したものでした。

なかでも、大正6年(1917年)に開催された、東海道五十三次を走る日本初の駅伝「東海道駅伝徒歩競走」は、金栗にとっても重要な大会でした。

このときは関東と関西に別れて競いました。

関東組のアンカーは金栗。

満開の桜の中、タスキを背負った金栗は関西組に大差をつけて、先にゴールしたのでした。

箱根駅伝栄光の碑

なおこの年、金栗は春野スヤという女性とお見合いをして、結婚しています。

大正5年(1916年)には、金栗ら三名の陸上選手が、東京箱根間を走る駅伝大会を発案しました。

そうです、今に至るまで正月の恒例行事である「箱根駅伝」です。

前述の通り1920年に第1回大会が始まり、東京高等師範学校が優勝しました。

このときの参加校は他に明治・早稲田・慶応の計4校で、翌年には東農大、法政、中央の3校も参考して計7校の中で明治が1位。

更に翌1922年には東大、日本歯科大学、日大も参加して、にわかに盛り上がってきますが、1923年には夜間学部に属する生徒の参加が禁止となりました。

人力車を引く車夫が参加するなどの問題が表面化したのです。

言い換えればさほどに同大会の注目度が上がっていたわけですね。

箱根駅伝の歴史
箱根駅伝は誰がいつ何のために始めたのか?金栗四三と共に歩んだ歴史

続きを見る

 

二度目のアントワープ五輪へ

箱根駅伝と同年の大正9年(1920年)4月。

ベルギーでアントワープ五輪が開催されました。

金栗は自身8年目となるマラソン代表として予選を勝ち抜いて2度目の参加が決定。

アントワープ五輪ポスター/Wikipediaより引用

日本選手団は、前回1912年のストックホルム五輪よりも選手が増えていました。

彼らは海路アメリカ経由で、目的地のベルギー・アントワープをめざします。

途中でアメリカにもゆっくり滞在し、スポーツ先進国を視察する目的も果たしました。

今回の選手団は、前回と比べて、格段に快適に過ごすことができました。

これも経験者である金栗が、よりよい環境づくりを行った結果であります。

そして8月22日、マラソンの当日(大会自体は4月20~9月12日という長さだった)。

前回のストックホルム大会とはうってかわって、鳥肌が立つような寒さでした。

金栗は膝に痛みを抱えつつ、レースに挑みます。

30キロ地点を通過するころには、5位にまで浮上。好調でした。

が、4位の走者を抜こうというときになって、左足首に痛みが走ります。

痛みは弱まるどころか、足首からふくらはぎ、そして大腿部へとジワジワと。

冷たい雨の中、痛みに麻痺したような脚を引きずってゴールしたとき、金栗は16位でした。

もしも脚の痛みさえなければ……無念の敗北でした。

この大会では、男子テニスの熊谷一弥と柏尾誠一郎がメダルを獲得したのみで、それ以外の日本選手は入賞を逃しました。

しかし金栗が何も得られなかったわけではありません。

海外でスポーツに取り組む女性の姿を見た金栗は「女子にもスポーツ教育が必要だ」と確信したのでした。

 

女子スポーツ教育振興に取り組む

女子スポーツ教育案を練る金栗に、嘉納は「東京女子師範はどうか」と紹介してきました。大正12年(1923年)のことです。

赴任先の女子師範に向かった金栗を迎えたのは、おてんば娘たち。

彼女らが親しんでいたスポーツは、自転車でした。

スカートや袴のまま乗り回せる自転車は、女性にとっても颯爽とした開放感の象徴でして。

西洋の婦人だけではなく、日本の女学生たちにとってもそうでした。

しかし、当時の世間は「女子がスポーツをするのは、はしたない、不要だ」という風潮でした。

この時代の女子教育とは良妻賢母になるためのもので、スポーツなぞもってのほか。

金栗はそうは思いません。

女子の健康のために、スポーツが必要だと信じていました。

そこで彼が考えた女子にふさわしいスポーツとは、テニスでした。

アントワープ五輪メダリストであり、フランス名選手のスザンヌ・ランラン/Wikipediaより引用

金栗の指導は厳しい、と同時に大変楽しいものでした。

無理矢理鍛えるというよりも、皆と楽しむものですので、生徒だけではなく教員までテニスに励んだのです。

そしてそれは昭和5年(1930年)の金栗退任まで、日本女子スポーツの種が蒔かれたのでした。

 

三度目のパリ五輪

大正13年(1924年)、金栗は三度目の五輪に挑みました。

今度はパリ大会です。

この年、金栗は既に30才を越えていて、選手としてのピークは過ぎていました。

本人としても後進選手にバトンを渡しておきたく、本来は出るつもりはありません。

しかし、予選会だけでも「後の選手たちに伴走する気持ちで」と周囲から背中を押され、これに出たのです。

と、この予選会で、金栗一門の選手たちはほとんどリタイアしてしまいます。

こうなると俄然やる気が湧いてくるもので、金栗は猛練習に励み、三度目の出場権利を手にするのでした。

三度目の参加。

マラソン競技の当日は、12年前のストックホルム五輪を思わせるような、暑い日でした。

金栗は前半こそ積極的に飛ばしたものの、32~33キロ付近で急激に意識が朦朧としてきて、またしてもリタイアしてしまったのです。

その前には20キロ付近で、田代菊之助もリタイアしており、日本人選手団の力のなさをあらためて痛感させられることになります。

確かに猛暑もありました。

そして睡眠不足の悪影響もありました。

しかし、四年に一度の大舞台で実力を発揮するためには、まだまだ新たな努力と工夫が必要であると、痛感させられた苦い結果でした。

そしてこの大会を最後に、金栗は選手としてのキャリアを終えるのでした。

四年後の昭和3年(1928年)アムステルダム五輪において、日本人選手の山田兼松が4位、津田清一郎が6位入賞を果たしました。

この知らせを、金栗は嬉しい気持ちで知りました。

彼の三度にわたる五輪挑戦は不本意な結果でしたが、道を切りひらき、後進を育てる役割は立派に果たしたのです。

昭和5年(1930年)、金栗はスポーツ嫌いの校長と対立し、東京女子師範を去りました。

4人の子の父となっていた金栗は、東京を去り郷里熊本に戻ると、子供たちにスポーツの楽しさを教え、悠々とした日々を過ごすことにしたのでした。

その後、昭和15年(1940年)の東京五輪大会準備に携わるため再度上京するものの、戦火の拡大により、幻に終わってしまったのでした。

 

スポーツマンとして初の紫綬褒章を受賞

太平洋戦争の影響は、言うまでもなく東京五輪中止だけにはとどまりません。

日本全土が焦土と化し、未来あるアスリートもふくめて、多くの人々が命を散らしました。

その傷がようやく癒え始めた昭和21年(1946年)10月20日、第一回全日本毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン→link)が開催。

これを皮切りに日本の長距離陸上も復活を遂げ始め、さらにその翌年には、金栗の名を冠した「第一回金栗賞マラソン」(現・金栗翁マラソン大会→link)が開催されます。

かつての韋駄天も、そのときには還暦の手前。

感無量の気持ちで、大会を見守ります。

金栗はこのあと、五輪やボストンマラソンといった国際大会で活躍する日本人選手の育成にあたりました。

そしてそれまでの功績を認められ、昭和30年(1955年)には、スポーツマンとしては初の紫綬褒章を受賞したのです。

 

55年ぶり感動のゴール

昭和42年(1967年)、金栗は思い出の地であるストックホルムの地に経ちました。

実に55年ぶりのこと。

ストックホルム五輪の記念行事に、招待されたのです。

金栗は、同五輪の大会で、記録上は棄権したという意志が伝わっておらず、未だゴールしてない状態だったのです。なんという粋な計らいでしょうか。

当時のまま残っているストックホルムのスタジアム。

オリンピックスタジアム正門/photo by Derbeth Wikipediaより引用

金栗が少し走り、ゴールテープを切った瞬間、アナウンスが流れます。

「ストックホルム五輪全日程が、これにて終了しました」

続けて発表されたマラソンのタイムは「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒」。

ゴールした金栗は「この間に妻をめとり、子が6人と孫10人ができました」と挨拶をして、観客を沸かせました。

このストックホルム訪問の際、金栗は、かつてお世話になったペトレ家も訪れています。

そこで女主人からふるまわれたラズベリー味のレモネードを「55年前と同じだ」と喜び、飲み干しました。

金栗は大会以来、ペトレ家の人々と文通を続けていました。

そして半世紀以上のときを経て、再会を果たしたのです。

昭和58年(1983年)11月13日。

金栗は92才で大往生を遂げました。

一生涯を走ることに捧げ、「体力、気力、努力」を掲げて生き抜いた大アスリートの一生。

大河ドラマ『いだてん』での登場が今から待ち遠しくてなりません。

※なお、最後になりましたが田畑政治は、特に水泳競技の発展に尽力された方で、後に1964年東京オリンピックの開催を実現化された功労者です。物語が盛り上がること必至となりそうですね!

ソレントゥナに設置された金栗四三の記念銘板/photo by Ah-Young Andersson wikipediaより引用


あわせて読みたい関連記事

嘉納治五郎
日本柔道の祖・嘉納治五郎がオリンピックの誘致に賭けた情熱 77年の生涯

続きを見る

三島弥彦
日本初のオリンピック短距離選手・三島弥彦|大会本番での成績は?

続きを見る

マラソン競技中に失踪した金栗四三、ペトレ家に救助され都市伝説となる

続きを見る

箱根駅伝の歴史
箱根駅伝は誰がいつ何のために始めたのか?金栗四三と共に歩んだ歴史

続きを見る

※1 大阪道頓堀のシンボルであるグリコは複数のランナーをモデルにデザインされました。

金栗四三だけでなく谷三三五(たにささご)やカタロン選手(フィリピン)などが含まれています(以下、マイナビ記事より引用)

グリコの記録に残っているのが「極東オリンピック(第5回極東選手権競技大会)で優勝したカタロン選手(フィリピンの選手でマラソンで優勝)をはじめ、パリオリンピック(1924年開催)に出場した谷三三五(たにささご)選手やマラソンの金栗四三(かなぐりしそう)選手で、その他、当時の多くの陸上選手らのにこやかなゴールイン姿をモデルにした」

【参考文献】
長谷川孝道『走れ二十五万キロ―マラソンの父金栗四三伝』(→amazon
佐山和夫『箱根駅伝に賭けた夢 「消えたオリンピック走者」金栗四三がおこした奇跡』(→amazon

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

-明治・大正・昭和
-

右クリックのご使用はできません
目次