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永井道明(いだてん杉本哲太)とスウェーデン体操 日本の体育を創った男とは?

2019年大河ドラマ『いだてん』で、ひときわ迫力ある存在――それが永井道明(杉本哲太さん)でしょう。

読み方は「ながい どうめい」。
東京高等師範学校の寮で学生相手に凄むシーンは既に見せ所の一つとなっております。

史実のイメージも割とピッタリで、日本の体育、さらには体操競技を学校教育に普及した人物でした。

特にスウェーデン体操を輸入したことでも知られます。

本稿では永井道名と、スウェーデン体操について歴史的見地から見て参りましょう。

 

日本体操教育のパイオニア

明治元年(1868年)、永井道明は水戸に生まれました。

幕末の水戸は、藩内が真っ二つに分かれ、大動乱の最中。
そんなところに生まれたわけですから、ドラマの中で鬼教師として描かれるメンタルも納得がいきますね。

永井は、水戸中学校、茨城師範学校を経て、東京高等師範学校博物科に入学します。
そして、明治26年に卒業すると、同校附属の中学校で教諭を務め、その後は、奈良県畝傍中学校の教諭、校長、さらには姫路中学校長等を歴任しました。

まさに、教育界を生きて来た人物です。

その実力を認められたのでしょう。
明治38年(1905年)には官名を受けて欧米留学も果たします。

明治39年(1906年)ボストン体育師範学校に入学すると、翌明治40年(1907年)に同校を卒業。
今度は、スウェーデン国立体操練習所に入り、明治41年(1908年)まで在学しました。

そこで後述のスウェーデン体操を研究したのですね。

 

肋木、平均台、跳び箱を普及させ

明治42年(1909年)、スウェーデン体操と共に帰国を果たした永井。

早速、東京高等師範学校と東京女子師範学校の教授を兼任し、
「これからはスウェーデン体操だ!」
と坪井玄道と共に張り切ります。

ストックホルムで撮影されたスウェーデン体操の様子(1900年)/wikipediaより引用

肋木、平均台、跳び箱――といった器具の普及につとめ、全国の学校に行き渡るように手配。
まさに日本体操教育のパイオニアとして成果をあげていきます。

明治42年(1909年)、永井は坪井と共に、文部省の依頼により「学校体操要目原案」を作成にも関わりました。

それが大正2年(1913年)に「学校体操教授要目立案」として発布。
坪井と永井が推すスウェーデン体操が、日本の体育教育で採用されたのです。

しかし、この方針に異議を唱える人物もおりました。

『いだてん』にも出てくる、東京高等師範学校教授・可児徳です。

 

スポーツは楽しんでこそ 対立した両者はついに退職

永井のスウェーデン体操は、あまりに遊戯的な側面がない。それでは競技を楽しもうという気概が育たない。

スポーツは楽しんでこそではないだろうか?

可児はそう考えました。
永井のやり方は、可児が二年間のアメリカ留学で身につけてきたものとはちがっていたのです。

可児は、スウェーデン体操の欠点や弱点を探し、結果的に両者の対立へと至るのでした。
このあたりが『いだてん』からも見て取ることができます。

スポーツは楽しむべきだと語る嘉納治五郎の見解に理解を示し、背中を押す可児。そこには、永井への反発もあったのですね。

対立は続き、結局、大正10年(1921年)には両者ともに東京高等師範学校を退職してしまいます。
永井は生真面目すぎたのかもしれません。

スウェーデン体操が結果的に勝利し、日本の教育界では長いこと主流とされて来ました。

しかし、そのためでしょうか。
体育はつまらない、体操には嫌な思い出がある、そんな印象を抱いてしまった子供たちも多くいたようです。

それもそのはず永井が広めたスウェーデン体操は、元をたどれば戦争を経て戦争に備えるための、そんな運動でした。
楽しもうという心は、あまりなかったのかもしれません。

今日は廃れてしまったスウェーデン体操。
それは如何にして生まれたのでしょうか。

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