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村田新八/Wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

村田新八42年の生涯をスッキリ解説!大久保利通と西郷隆盛の間で揺れる複雑な関繋

更新日:

もしもアナタが幕末の薩摩藩に生まれ、
『大久保に頼まれ、西郷の説得に向かう――』
なんて役割を与えたらどうします?

西南戦争で、正面から対決することになってしまった親友同士の西郷隆盛大久保利通

ちょっと想像してみただけで胃が痛いというか、もう、何のチョイスも残ってないやんと絶望してしまいそうになりますが、一方で、こんな【大きな役割】を与えられていいもんか?と魂が震えてしまうかもしれません。

しかし、史実というものは冷酷。

実際に、この大きな役割を与えられた村田新八は、結局のところ西郷隆盛という大人物から離れることができず、非業の運命を共にしてしまいます。

本稿では、村田新八42年の生涯を振り返ってみましょう。

 

西郷と殴り合って互いを気に入った!?

村田新八(本稿はこの名で統一)は、天保7年(1836年)に誕生。
文政10年(1828年)生まれの西郷から見て、8才年下になりますね。

彼の父は「新番」をつとめる高橋八郎でした。
西郷隆盛や大久保利通よりやや上の家格にあたります。

が、実は村田の出生地はハッキリとはしておりません。

鹿児島城下で生まれたことは確か。
養子となった村田家は西郷や大久保と同じ下加治屋町であったこともその通りです。

されど、村田家に入る前、具体的にどこで暮らしていたのかが謎でして。
大河ドラマ『西郷どん』のように、幼少期から西郷と付き合いがあったかどうか、残念ながら不明です。

西郷どんでは堀井新太さんが演じる村田新八

では、そんな2人がいかにして仲良くなったのか。
真偽不明ながらこんな逸話があります。

【村田が幼い頃、西郷隆盛と格闘になり、そのあと互いのガッツを気に入った】
って、まんま週刊少年ジャンプですね。

ただ、冷静に考えると、西郷と村田はかなりの年齢差があるわけで。
例えば中学1年生(13才)の村田と、大学生(21才)の西郷が殴り合ったのか?と想像すると、いやいや、西郷さん、それはどうなのよという話です。

村田は、当時としては破格の身長180センチを超える大男でした。
子供の頃から大柄だったと解釈しても、さすがに大人げないケンカだった気はします。

 

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24才にして「精忠組」に参加

村田が政治活動に参加するようになったのが確実なのは安政6年(1859年)から。
この年、薩摩で記録された「精忠組」の名簿に、彼の名前があるのです。

精忠組とは、政治に危機感を募らせた若手藩士たちが、大久保利通を中心に集まった集団で、長州藩の「松下村塾」と立ち位置が似ています。
西郷や大久保と、村田との付き合いもこの頃始まったと考えたほうが自然でしょう。

1859年と言えば「安政の大獄」の真っ最中。
村田は、この「精忠組」の一因として活発に活動するようになります。
具体的には、長州藩の勤王豪商・白石正一郎や、福岡藩の尊皇攘夷思想家・平野国臣らと交流を深めておりました。

ただし、村田ら活発な「精忠組」の行動は、このころ藩の実質的な権力者であった島津久光からしますと、
「暴走気味の若手藩士」
として映ってしまいます。

島津斉彬は1858年に亡くなっており、西郷も奄美大島へ島流し。
後の薩摩躍進を考えると、当時は決して万全の状態ではありません。

しかし島津久光はよく国をまとめ、藩主ではないものの、実質的な権力者であり国父(父のように尊敬される人)として尊敬されておりました。

島津久光/wikipediaより引用

そんな久光は1862年、後に「寺田屋事件」と呼ばれる騒動の処断を下します。
京都の寺田屋に立てこもった若手の薩摩藩士。
暴走気味だった彼らを斬らせたのです。

斬られたグループの中心人物は有馬新七
斬り込んだグループの中心人物は大山格之助大山綱良)。
いずれも西郷の育った加治屋町と関係浅からぬ人々ですね。

幸いなことに、事件の現場に村田は居合わせておりませんでした。
が、関係者として、処罰の対象とされてしまいます。

文久2年(1862年)、村田は喜界島への流刑となりました。
このとき、西郷隆盛は二度目の流刑で、徳之島(のちに沖永良部島へ変更)へ流されることになりました。

南国・喜界島の浜辺

 

流刑地・喜界島からの帰還

流刑地での暮らしは、比較的自由でした。

村田は一人の島民として、天候不順にならないように祈り、作物の収穫を喜ぶような日々。
喜界島もまた近隣の諸島と同じくサトウキビを育て、黒糖を作り出しておりました。

しかし、いくら地元に慣れ親しんだとはいえ、薩摩や中央の情勢は気になって仕方ありません。
時折、届く手紙に一喜一憂する日々であり、流刑者仲間と言える西郷とも文通を続けました。

いつ終わるかわからない。
そんな精神的なプレッシャーが辛い流刑生活。2度目の正月を迎えます。

元治元年(1864年)、蒸気船が突如喜界島に姿を見せます。
島民も、村田も、驚愕しました。
なんとこの船は、西郷を乗せた胡蝶丸であったのです。

赦免の知らせすら届いていなかったため、村田は驚き、喜びました。
2年ぶりに帰郷した村田に、ジッと休んでいる間はありませんでした。

激動の京都へ向けて出立したのです。

 

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その人柄が薩長の和解にも役立った!?

村田や西郷が京都入りした夏、「禁門の変蛤御門の変)」が勃発(1864年)。

長州藩と会津藩の争いに、薩摩藩は当初、加勢しないはずでしたが、長州藩が朝命に背いているとして、途中から攻撃に加わります。

そして薩摩藩が加わると、争いは途端に決着。
この戦闘に村田も、参加していました。

京都の村田は、西郷や大久保とともに活動していたと思われます。
というのもそこには薩摩の郷中をそのまま移したような、薩摩藩士のグループができておりまして。

郷中行事であった「赤穂義臣伝輪読会」が行われた記録もあります。

慶応元年(1865年)からの薩長間での和解には、村田の人間関係も役立ちます。
というのも、村田は、長州藩に亡命した土佐藩士・土方久元と懇意でした。

土方久元/Wikipediaより引用

坂本竜馬中岡慎太郎もそうですが、土佐藩士は薩長間の調整に役立つ存在です。
薩摩藩士も、長州藩士相手にはいきり立ちながら、土佐藩士ですとそういうわけにもいかないのです。

要は、間に入る中心人物だった村田の人柄、人脈が活かされたわけですね。

村田は、慶応2年(1866年)の薩長同盟前後にも、調整役として活動しています。
西郷らの大きな影に隠れがちですが、村田のような人々も、この大きな和解において尽力していたのです。

 

戊辰戦争

王政復古や坂本龍馬暗殺など、時代が大きく展開した慶長3年(1867年)。
村田は、京都守護職屋敷前で会津藩士と斬り合いになり、負傷してしまいます。

この負傷の影響が響いたのでしょうか。
村田は、他の薩摩藩士と比較すると、戊辰戦争での活躍が目立ちません。
軍人としてのキャリアは、ここで途切れて閉まった感すらあります。

もっとも、これは負傷の影響だけとは言い切れないようです。
村田は桂久武から西郷の側を離れぬよう命じられていたという事情もありました。

西郷のボディガードのような役目を果たしていたため、活躍が制限された可能性もあります。

 

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岩倉使節団に参加、フランス留学

明治2年(1869年)、村田は鹿児島常備隊がつくられた際、村田が砲兵隊長となった――とされていますが、史料的には裏付けが取れておりません。

明治維新後、村田は負傷と疲労がたたったのか、しばらくは病気療養をしておりました。
出仕を求められても、積極的に応じることは難しかったようです。

そして明治4年(1871年)、村田は宮内大丞として岩倉使節団に参加します。
旅の途中で思うところがあったのか、使節団を抜け、職を辞してまで、自費でのフランス留学を願い出ます。しかし……。

のちに村田は
「この留学生活では何も得るところがなかった」
と自嘲気味に書き残しております。

一文だけで判断するのは少し乱暴かもしれませんが、素直でユーモアを持ち合わせた方だったような一面が見えてきますね。

 

西郷と大久保のはざまで

明治7年(1874年)、村田は帰国しました。
その心中は穏やかではなかったことでしょう。

当時、政局では征韓論が勃発していたのです。
これは西郷と大久保の争いだと、村田は悟っていました。

両者と親しい村田です。心中は辛いものがあったことでしょう。
二人の言い分を聞こうと、村田は心に決めます。

まず大久保の言い分を聞いた村田は、次に鹿児島にいる西郷のもとへ。

村田は、大久保の理屈に理解を示しました。
しかし、心情的には西郷についてしまうのです。

「西郷とは離るべからざる関繋(かんけい)だから」
村田は、周囲にそう語っています。

人を引きつけてやまない西郷の魅力。
その魅力は、マイナスの方向に動き始めたとき、周囲の人々を一緒に不幸へ呑み込んでしまう性質のようで……。

村田もその一人でした。

 

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西南戦争に散った父子

帰郷した村田は、西郷と共に生きる日々に戻りました。
そして時代は、明治10年(1877年)の西南戦争へと向かってゆきます。西郷と離れられない村田も時代のうねりに巻き込まれました。

村田だけではありません。彼の二人の息子も従軍していました。

このうち、長男・岩熊は19の若さで戦死。

村田は岩熊戦死の報告を受け取ると、
「死に場所を得たのだ」
とだけ言い残しました。その胸中は複雑なものであったことでしょう。

明治10年(1877年)9月24日、城山の戦いにおいて、西郷とともに村田は戦死しました。
胸には銃弾がめり込んでいたと伝わります。
享年42。

西郷と生き、西郷とともに死す。まさに離れられない関係。

音楽を愛した村田が、アコーディオン(風琴)を戦中でも演奏していた――そんな描写がなされることがあります。

確かに彼は音楽をこよなく愛していました。
思わずその音色を想像してしまいますが、西南戦争時に演奏していたという記録はないようです。

文:小檜山青




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【参考文献】
桐野 作人・則村一・卯月かいな『村田新八 (歴史新書)』
国史大辞典

 



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