薩摩藩士や西郷隆盛を描いた大河ドラマ『西郷どん』。
その魅力の一つは、西郷と共に出世を果たす郷中仲間たちでした。
秀才・大久保利通は皆さん御存知の通り、明治新政府を作り上げ、西郷隆盛と木戸孝允(長州藩)と共に維新三傑の一人に数えられるほどの英傑です。
ほかに、ドラマにおける仲間は、
・大山格之助(大山綱良)
・村田新八
・有馬新七
などがいましたが、中には『また、やっちゃったか……』と、ハラハラさせられる、ちょっとした残念キャラもおります。
明治39年(1906年)10月27日に亡くなった海江田信義(有村俊斎)です。
いったい何が残念で、史実ではどのような人物だったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
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有村兄弟とは?
有村俊斎(海江田信義)の有村家には、4人の兄弟がいました。
長男:有村俊斎(海江田信義)
二男:有村雄助
三男:有村次左衛門
四男:有村國彦
うち長男の俊斎(海江田)、二男の雄助、三男の次左衛門が幕末の政局に関わります。
各種書籍やwikipediaなどで、俊斎が有村家の二男(五人兄弟)というのも見かけますが、ここでは国史大辞典の長男表記に従って進めます。
有村三兄弟は薩摩藩士らしく、示現流や薬丸自顕流剣術を学んでおりました。
長男・俊斎こと海江田は15才で大山格之助(大山綱良)に敗れ、入門したとも伝わります。
大山の剣術は薩摩でも鳴り響くほどで、それに負けるのも致し方ないですが、この逸話自体は真偽が不明。
ただし、後に有村三兄弟が関わった事件からして、剣術の腕前はかなりのものであったことが推察されます。
海江田と西郷の確実な関わりが確認できるのは、薩摩を二分した例のお家騒動からです。
【お由羅騒動】で斉彬派だった有村家の面々は、同事件で辛酸を舐め、嘉永4年(1851年)の島津斉彬・藩主就任で、ようやく藩政に復帰。
俊斎は、この頃から西郷、大久保らが先導する【精忠組】に参加しました。
精忠組とは、長州藩における【松下村塾】のようなもので、幕末の動乱に向けて多くの志士を輩出しております。
その詳細は以下の記事をご覧ください。
西郷や大久保を輩出した薩摩の精忠組(誠忠組)目をかけていたのは久光だった
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一橋派が負け、赤鬼による粛清が始まった
精忠組に参加した有村三兄弟(海江田・雄助・次左衛門)は、尊皇攘夷の志を強くします。
特に海江田は、江戸に出てから水戸藩士らと交流を深め、藤田東湖からも思想を学びました。
藤田は、水戸藩主・徳川斉昭にも影響を与えた過激な攘夷論者であり、当時から名を馳せた人物です。
西郷や橋本左内など、当時の若手エリートにも影響がありました。
しかし、この水戸藩士らとの交流が、海江田を除く有村兄弟を後の大事件へと導いてしまいます。
島津斉彬が藩主に就任してから、江戸幕府では、島津斉彬や徳川斉昭、阿部正弘らの一橋派と、井伊直弼らの南紀派による、第14代将軍の跡継ぎ争いが勃発しておりました。
一橋派は一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推す一派で、南紀派は徳川慶福(よしとみ)を推挙する者たちです。
当時の第13代将軍・徳川家定は、島津家から篤姫が輿入れしておりましたが跡継ぎが期待できず、周囲の有力者たちは自然と次の代に目が向いていたのでした。
そんな矢先のこと。
安政5年(1858年)に正弘や斉彬が相次いで死亡。
南紀派の徳川慶福が第14代将軍・徳川家茂となり、同時に井伊直弼による一橋派の粛清が始まりました。
いわゆる【安政の大獄】です。
安政の大獄は井伊直弼が傲慢だから強行されたのか? 誤解されがちなその理由
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赤鬼と呼ばれる井伊直弼の政治的弾圧によって、西郷は月照と共に鹿児島の錦江湾へ入水自殺をはかり(西郷だけ奇跡的に一命を取りとめる)、海江田もまた幕府から追われる身となりました。
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