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海江田信義/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

有村俊斎(海江田信義)のザンネン過ぎる4つの功績 西郷どんでも注目!

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大河ドラマ『西郷どん』における魅力の一つは、共に出世を果たす郷中仲間たちでしょう。

秀才・大久保利通は、皆さん御存知の通り。
明治新政府を中心になって作り上げ、西郷隆盛木戸孝允(長州藩)と共に維新三傑の一人に数えられるほどの英傑です。

ほかに、ドラマにおける西郷どんのお仲間は、
大山格之助大山綱良
・海江田信義(有村俊斎)
村田新八
有馬新七
上記のメンバーが公式サイトでも表記されております。

ただ、その全員が、歴史上でまばゆい光を放ったワケでもなく、中には
『おいおい、また、やっちゃったか!><;』
と、ハラハラさせられる、ちょっとした残念キャラもおりまして。

それが海江田信義有村俊斎)。

有村俊斎→海江田信義(高橋光臣さん)

史実ではどのような人物だったのでしょうか。

 

そもそも「郷中仲間」なのか

『西郷どん』の公式サイトには「郷中仲間」として4名の名前が記載されております。

大久保利通は大久保家の一員として掲載。
ドラマでは、その4+1の5名に加えて、第1話から岩山糸が幼なじみとして行動しておりますね。

では、史実における彼らと西郷の関係性はいかなるものだったか?
幼馴染として一緒に郷中教育を学んだのか?

ということを【◯△×】でざっくり表記してみますと(年齢差は西郷との比較)

◯:大久保利通 3才下
◯:大山格之助 3才上
△:有村俊斎 5才下
△:村田新八 9才下
△:有馬新七 2才上
×:岩山糸 16才下

大久保と大山は幼き頃から共に学んだ仲間として認定して良さそうです。
が、他のメンバーについては
「昔から付き合いがあっても不思議じゃないけど、確実に言えるのは一定の年齢(政治情勢が動き出して)から」
記録が見えるというものです。

黒木華さん演ずる岩山糸に至っては、結婚のときに初顔合わせと言って間違いないでしょう。

何が言いたいか?
と申しますと、彼らが全員揃ってワーキャーしているのはあくまで物語のことで、史実ではその辺を割り引いて考えた方が理解度が上がると思われます。

このうち海江田信義は、本人だけでなく有村三兄弟として有村雄助・次左衛門と共に知られまして。
家族構成から見て参りましょう。

 

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有村兄弟とは?

有村俊斎(海江田信義)の有村家には4人の兄弟がおり、うち長男の俊斎(海江田)、二男の雄助、三男の次左衛門が幕末の政局に関わっております。

長男:有村俊斎(海江田信義)
二男:有村雄助
三男:有村次左衛門
四男:有村國彦

各種書籍やwikipediaなどで、俊斎が有村家の二男(五人兄弟)というのも見かけますが、ここでは国史大辞典の長男表記に従って進めます。

有村三兄弟は薩摩藩士らしく、示現流や薬丸自顕流剣術を学んでおりました。
長男・俊斎こと海江田は15才で大山格之助(大山綱良)に敗れ、入門したとも伝わります。

大山の剣術は薩摩でも鳴り響くほどで、それに負けるのも致し方ないですが、この逸話自体は真偽が不明。
ただし、後に有村三兄弟が関わった事件からして、剣術の腕前はかなりのものであったことが推察されます。

海江田と西郷の確実な関わりが確認できるのは、薩摩を二分した例のお家騒動からです。

由羅(お由羅の方)と、お由羅騒動をスッキリ解説! 薩摩内乱の真相とは

「お由羅騒動」で斉彬派だった有村家の面々は、同事件で辛酸を舐め、嘉永4年(1851年)の島津斉彬・藩主就任で、ようやく藩政に復帰。
俊斎は、この頃から西郷、大久保らが先導する「精忠組」に参加しました。

「精忠組」とは、長州藩における「松下村塾」のようなもので、幕末の動乱に向けて多くの志士を輩出しております。

 

一橋派が負け、赤鬼による粛清が始まった

「精忠組」に参加した有村三兄弟(海江田・雄助・次左衛門)は、尊皇攘夷の志を強くします。

特に海江田は、江戸に出てから水戸藩士らと交流を深め、藤田東湖からも思想を学びました。
藤田は、水戸藩主・徳川斉昭にも影響を与えた過激な攘夷論者であり、当時から名を馳せた人物です。

西郷や橋本左内など、当時の若手エリートにも影響がありました。

しかし、この水戸藩士らとの交流が、海江田を除く有村兄弟を後の大事件へと導いてしまいます。

有村次左衛門/wikipediaより引用

島津斉彬が藩主に就任してから、江戸幕府では、島津斉彬や徳川斉昭、阿部正弘らの一橋派と、井伊直弼らの南紀派による、第14代将軍の跡継ぎ争いが勃発しておりました。
一橋派は一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推す一派で、南紀派は徳川慶福よしとみ)を推挙する者たちです。

当時の第13代将軍・徳川家定は、島津家から篤姫が輿入れしておりましたが跡継ぎが期待できず、周囲の有力者たちは自然と次の代に目が向いていたのでした。

そんな矢先のこと。
安政5年(1858年)に正弘や斉彬が相次いで死亡。
南紀派の徳川慶福が第14代将軍・徳川家茂となり、同時に井伊直弼による一橋派の粛清が始まりました。

いわゆる「安政の大獄」です。

赤鬼と呼ばれる直弼の政治的弾圧によって、西郷は月照と共に鹿児島の錦江湾へ入水自殺をはかり(西郷だけ奇跡的に一命を取りとめる)、海江田もまた幕府から追われる身となりました。

 

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海江田の弟は江戸に留まってしまった

それにしても、西郷や大久保だけでなく、海江田や有村兄弟も属した精忠組って何なんでしょう?

彼らは血気盛んな薩摩の若手ばかりです。ゆえに時に危険な志向に走りがちでして。

当時の彼らは
・大老 井伊直弼
・関白 九条尚忠
・京都所司代 酒井忠義
らを殺害して、天皇を擁する計画を練っていました。

しかし、大胆かつ杜撰すぎるこの計画は、事前に薩摩上層部に知られてしまいます。

このころ藩を掌握していたのは島津久光です。
新藩主・忠義の父「国父」として、藩士たちからの支持も得ておりました。

久光は精忠組を見事に取り込みます。
彼らの志を否定するのではなく、むしろ認め、いつかは藩をあげて行動するからとなだめ、過激な行動を制限するよう、大久保に言い聞かせたのです。

こうして薩摩藩の外にいた精忠組の藩士たちも何事もなく帰国しますが、海江田の弟「有村雄助と有村次左衛門」らは江戸に留まります。

運命の分かれ目でした。

 

井伊直弼の首を持って帰ろうとしたところ

それは安政7年(1860年)のことでした。

有村次左衛門は桜田門外にて、大老・井伊直弼を殺害し、その首を切り落としたのです。
いわゆる「桜田門外の変」ですね。

同事件に薩摩のイメージは薄いですが、その首を実際にとったのは海江田の実弟だったのです。

桜田門外の変を描いた 月岡芳年の絵/wikipediaより引用

しかし、次左衛門は、首を抱えて現場を去ろうとしたところを斬りつけられて、絶命(享年22)。

弟の雄助は、井伊直弼殺害に呼応して京都・大阪で兵を起こすべく、西へ向かいます。
その途上、薩摩藩が放った追っ手に捕らえられ、鹿児島で切腹させられました(享年26)。

兄として、海江田の無念はいかばかりでしょう。
大久保らも、せめて雄助は……と助命嘆願しましたが、激怒した島津久光の怒りは尋常ならざるもので、聞く耳を持ちません。

それでも久光は、海江田本人については厳しい処分をするどころか自身の護衛にしているのですから、決して無情な人物ではなかったこともわかりましょう。

井伊直弼の殺害事件に関わった以上、誰が藩主だったとしも、有村兄弟の死は避けられなかったのではないでしょうか。

 

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西郷の勝手な行動をウッカリ久光に漏らしてしまう

さて、兄である海江田は、文久元年(1861年)、日下部伊三治の次女・まつと結婚。
婿養子として、海江田武次信義と改名します。

本来は弟の次左衛門が日下部家を継ぐ予定でしたが、桜田門外の変で亡くなり、兄にお鉢が回ってきたのです。

しかしこの直後、
「海江田、アイツ余計なことしたよね」
と言われる事件が起こります。

文久2年(1862年)。
島津久光の上洛。護衛として同行していた海江田は、つい言ってしまったのです。

「西郷は今どこにいるのか。下関か?」
「西郷は大阪においもす」
「は?」
「……」

西郷は、流罪から復帰したとはいえ、安政の大獄から逃れるために、表向きは「死亡」した人間です。
その西郷を隠しながら使っている久光としては、勝手な行動だけは許せません。

にも関わらず西郷は、待機命令を破って移動しているわけです。

久光、再び激怒。
海江田の余計な一言から、西郷二度目となる流罪のきっかけを作ってしまいました。

むろん、悪いのは西郷ですが、海江田とてバツが悪かったことでしょう。

そしてその直後、「寺田屋事件(寺田屋騒動)」が起きるのですが、ここでも海江田は満足な結果を得られません。

有馬新七ら、寺田屋に立て籠もった藩士の説得を命じられ、結局、失敗。
大山格之助(大山綱良)ら腕利きの剣士が力づくで征圧することになったのです。

さらに同年の「生麦事件」では、負傷して落馬したイギリス人チャールス・リチャードソンを海江田が殺してしまいます。

早川松山によって描かれた生麦事件/wikipediaより引用

 

たしかに海江田にも言い分はあります

マトメますと……。

1. 西郷の居場所をバラして、流罪のきっかけを作る
2.「寺田屋事件」で説得に失敗
3.「生麦事件」でイギリス人を殺し「薩英戦争」のきっかけを作る

幕末ファンから、ときに「無能」と称されてしまいますが、それもむべなるかなという結果が出てしまっているのです。

むろん、海江田にも言い分はあるでしょう。

1.そもそも西郷が軽挙妄動
2.興奮しきった若手薩摩藩士を誰が言葉で説得できる?
3.イギリス人そのものも悪いし、事前にイギリス人を止められなかった藩士も悪い
そんな風に見ることもできるワケで、海江田を責めるのもどうかなぁというところです。

ただし、桜田門外の変に関わった有村兄弟は、さすがにマズイでしょう。
ヘタをすれば薩摩藩の命運が途絶えていた可能性だってあります。

そして海江田4つめのザンネンな功績。それは薩長同盟にも関わるものでした。

 

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大村との対立で暗殺疑惑→新政府で出世できず

薩摩藩と長州藩は、京都における争い(禁門の変)等で、激しい対立関係にありました。

しかし、薩長同盟前夜ともなると、徐々に雪解けの気配も見えてきます。
よく知られた坂本龍馬中岡慎太郎の他に、薩摩藩でも村田新八、桂久武小松帯刀らも長州藩との和解に尽力するわけです。

が、当然ながら例外もおりまして。
その代表格が海江田なのです。

後世の我々から見れば、(ノ∀`)アチャーと目を伏せたくなる人物でありますよね。

戊辰戦争において海江田は、東海道先鋒総督参謀として従軍していました。

ところが、長州藩の大村益次郎のやり方にブチギレ。

「お前は戦をなんも知らんじゃね」
「こん長州もんが、斬い捨ててやう!」
と大変なことになります。

海江田は長州藩から危険人物としてマークされたほどでして。
大村が暗殺されると、海江田が犯人じゃないの、とも噂されたました。

靖国神社に銅像となっている大村益次郎(村田蔵六)って何者なのさ?

海江田は「おや大村は殺しておらん」と否定するのですが、長州関係者は納得しません。

明治維新以降、海江田があまり出世できなかったのは、長州藩から危険視されたせいだとも言われています。
武功ではなくて、こんな歴史ばかりが残ってしまうというのも残念ですが……。

 

西郷と距離感あったゆえの長生きか

前述の通り、明治維新後の海江田は長州藩から嫌われたこともありさして出世はしませんでした。

鹿児島に戻ってからも、西郷と親しくなるというより、島津久光との距離が近くなります。

そのせいでしょうか。
明治10年(1877年)の「西南戦争」には不参加。

むろん彼らを憎んでいたとかそんな安直な理由ではなく、翌明治11年(1878年)に大久保が暗殺されると聞き、その死を悼んでおります。

彼自身は明治39年(1906年)に死去。
享年75でした。

『西郷どん』に出てくる郷中仲間の中で海江田は、最も長生きしたことになります。
西郷の仲間といっても全員が優秀であったわけでもなく、海江田はそれなりの部類の能力であったのかもしれません。

島津久光と距離が近かったため、西郷作品でも、マイナス評価されがちです。
が、今回の西郷どんではどんな描き方になるか?

ドラマの行く末も楽しみにしたいと思います。

文:小檜山青




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【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典
『国史大辞典』

 



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