有村俊斎(海江田信義)

有村俊斎(海江田信義)/wikipediaより引用

幕末・維新

有村俊斎(海江田信義)は長州に嫌われたから出世できず?残念な功績に注目

2024/10/26

薩摩藩士や西郷隆盛を描いた大河ドラマ『西郷どん』。

その魅力の一つは、西郷と共に出世を果たす郷中仲間たちでした。

秀才・大久保利通は皆さん御存知の通り、明治新政府を作り上げ、西郷隆盛と木戸孝允(長州藩)と共に維新三傑の一人に数えられるほどの英傑です。

ほかに、ドラマにおける仲間は、

・大山格之助(大山綱良)
・村田新八
・有馬新七

などがいましたが、中には『また、やっちゃったか……』と、ハラハラさせられる、ちょっとした残念キャラもおります。

明治39年(1906年)10月27日に亡くなった海江田信義(有村俊斎)です。

いったい何が残念で、史実ではどのような人物だったのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

海江田信義/wikipediaより引用

 


有村兄弟とは?

有村俊斎(海江田信義)の有村家には、4人の兄弟がいました。

長男:有村俊斎(海江田信義)

二男:有村雄助

三男:有村次左衛門

四男:有村國彦

うち長男の俊斎(海江田)、二男の雄助、三男の次左衛門が幕末の政局に関わります。

各種書籍やwikipediaなどで、俊斎が有村家の二男(五人兄弟)というのも見かけますが、ここでは国史大辞典の長男表記に従って進めます。

有村三兄弟は薩摩藩士らしく、示現流や薬丸自顕流剣術を学んでおりました。

長男・俊斎こと海江田は15才で大山格之助(大山綱良)に敗れ、入門したとも伝わります。

大山格之助(大山綱良)/wikipediaより引用

大山の剣術は薩摩でも鳴り響くほどで、それに負けるのも致し方ないですが、この逸話自体は真偽が不明。

ただし、後に有村三兄弟が関わった事件からして、剣術の腕前はかなりのものであったことが推察されます。

海江田と西郷の確実な関わりが確認できるのは、薩摩を二分した例のお家騒動からです。

お由羅騒動】で斉彬派だった有村家の面々は、同事件で辛酸を舐め、嘉永4年(1851年)の島津斉彬・藩主就任で、ようやく藩政に復帰。

俊斎は、この頃から西郷、大久保らが先導する【精忠組】に参加しました。

精忠組とは、長州藩における【松下村塾】のようなもので、幕末の動乱に向けて多くの志士を輩出しております。

その詳細は以下の記事をご覧ください。

精忠組(誠忠組)
西郷や大久保を輩出した薩摩の精忠組(誠忠組)目をかけていたのは久光だった

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一橋派が負け、赤鬼による粛清が始まった

精忠組に参加した有村三兄弟(海江田・雄助・次左衛門)は、尊皇攘夷の志を強くします。

特に海江田は、江戸に出てから水戸藩士らと交流を深め、藤田東湖からも思想を学びました。

藤田東湖/wikipediaより引用

藤田は、水戸藩主・徳川斉昭にも影響を与えた過激な攘夷論者であり、当時から名を馳せた人物です。

西郷や橋本左内など、当時の若手エリートにも影響がありました。

しかし、この水戸藩士らとの交流が、海江田を除く有村兄弟を後の大事件へと導いてしまいます。

島津斉彬が藩主に就任してから、江戸幕府では、島津斉彬や徳川斉昭阿部正弘らの一橋派と、井伊直弼らの南紀派による、第14代将軍の跡継ぎ争いが勃発しておりました。

一橋派は一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推す一派で、南紀派は徳川慶福(よしとみ)を推挙する者たちです。

当時の第13代将軍・徳川家定は、島津家から篤姫が輿入れしておりましたが跡継ぎが期待できず、周囲の有力者たちは自然と次の代に目が向いていたのでした。

そんな矢先のこと。

安政5年(1858年)に正弘や斉彬が相次いで死亡。

南紀派の徳川慶福が第14代将軍・徳川家茂となり、同時に井伊直弼による一橋派の粛清が始まりました。

いわゆる【安政の大獄】です。

安政の大獄
安政の大獄は井伊直弼が傲慢だから強行されたのか?誤解されがちなその理由

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赤鬼と呼ばれる井伊直弼の政治的弾圧によって、西郷は月照と共に鹿児島の錦江湾へ入水自殺をはかり(西郷だけ奇跡的に一命を取りとめる)、海江田もまた幕府から追われる身となりました。

 

海江田の弟は江戸に留まってしまった

それにしても、西郷や大久保だけでなく、海江田や有村兄弟も属した精忠組って何なんでしょう?

彼らは血気盛んな薩摩の若手ばかりです。ゆえに時に危険な志向に走りがち。

当時の彼らは

・大老 井伊直弼

・関白 九条尚忠

・京都所司代 酒井忠義

らを殺害して、天皇を擁する計画を練っていました。

しかし、大胆かつ杜撰すぎるこの計画は、事前に薩摩上層部に知られてしまいます。

このころ藩を掌握していたのは島津久光です。新藩主・忠義の父「国父」として、藩士たちからの支持も得ておりました。

島津久光/wikipediaより引用

久光は精忠組を見事に取り込みます。

彼らの志を否定するのではなく、むしろ認め、いつかは藩をあげて行動するからとなだめ、過激な行動を制限するよう、大久保に言い聞かせたのです。

こうして薩摩藩の外にいた精忠組の藩士たちも何事もなく帰国しますが、海江田の弟「有村雄助と有村次左衛門」らは江戸に留まります。

運命の分かれ目でした。

 


井伊直弼の首を持って帰ろうとしたところ

それは安政7年(1860年)のことでした。

有村次左衛門は桜田門外にて、大老・井伊直弼を殺害し、その首を切り落としたのです。

いわゆる「桜田門外の変」ですね。

同事件に薩摩のイメージは薄いですが、以下の記事にありますように、

桜田門外の変
前代未聞の暗殺事件「桜田門外の変」水戸だけでなく薩摩も密接に関わっていた

続きを見る

実際に首をとったのは海江田の実弟だったのです。

その結果、次左衛門は、首を抱えて現場を去ろうとしたところを斬りつけられて、絶命(享年22)。

弟の雄助は、井伊直弼殺害に呼応して京都・大阪で兵を起こすべく、西へ向かうその途上、薩摩藩が放った追っ手に捕らえられ、鹿児島で切腹させられました(享年26)。

兄として、海江田の無念はいかばかりでしょう。

大久保らも、せめて雄助は……と助命嘆願しましたが、激怒した島津久光の怒りは尋常ならざるもので、聞く耳を持ちません。

それでも久光は、海江田本人については厳しい処分をするどころか自身の護衛にしているのですから、決して無情な人物ではなかったこともわかりましょう。

井伊直弼の殺害事件に関わった以上、誰が藩主だったとしも、有村兄弟の死は避けられなかったのではないでしょうか。

 

西郷の勝手な行動をウッカリ久光に漏らしてしまう

さて、兄である海江田は、文久元年(1861年)、日下部伊三治の次女・まつと結婚。

婿養子として、海江田武次信義と改名します。

本来は弟の次左衛門が日下部家を継ぐ予定でしたが、桜田門外の変で亡くなり、兄にお鉢が回ってきたのです。

しかしこの直後、「海江田、アイツ余計なことしたよね……」と言われる事件が起こります。

文久2年(1862年)。

島津久光の上洛。護衛として同行していた海江田は、つい言ってしまったのです。

「西郷は今どこにいるのか。下関か?」

「西郷は大坂においもす」

「は?」

「…………」

西郷は、流罪から復帰したとはいえ、安政の大獄から逃れるために、表向きは「死亡」した人間です。

その西郷を隠しながら使っている久光としては、勝手な行動だけは許せません。

にも関わらず西郷は、待機命令を破って移動しているわけです。

西郷隆盛/wikipediaより引用

久光、再び激怒!

海江田の余計な一言から、西郷二度目となる流罪のきっかけを作ってしまいました。

むろん、悪いのは西郷ですが、海江田とてバツが悪かったことでしょう。

そしてその直後、【寺田屋事件(寺田屋騒動)】が起きるのですが、ここでも海江田は満足な結果を得られません。

有馬新七ら、寺田屋に立て籠もった藩士の説得を命じられ、結局、失敗。

大山格之助(大山綱良)ら腕利きの剣士が力づくで征圧することになったのです。

さらに同年の「生麦事件」では、負傷して落馬したイギリス人チャールス・リチャードソンを海江田が殺してしまいます。

 

たしかに海江田にも言い分はあります

マトメますと……。

1. 西郷の居場所をバラして、流罪のきっかけを作る

2.「寺田屋事件」で説得に失敗

3.「生麦事件」でイギリス人を殺し「薩英戦争」のきっかけを作る

薩英戦争で鹿児島に押し寄せるイギリスの軍艦/wikipediaより引用

幕末ファンから、ときに「無能」と称されてしまいますが、それもむべなるかなという結果が出てしまっているのです。

むろん、海江田にも言い分はあるでしょう。

1.そもそも西郷が軽挙妄動

2.興奮しきった若手薩摩藩士を誰が言葉で説得できる?

3.イギリス人そのものも悪いし、事前にイギリス人を止められなかった藩士も悪い

そんな風に見ることもできるワケで、海江田を責めるのもどうかなぁというところです。

ただし、桜田門外の変に関わった有村兄弟は、さすがにマズイ。ヘタをすれば薩摩藩の命運が途絶えていた可能性だってあります。

そして海江田4つめのザンネンな功績。

それは薩長同盟にも関わるものでした。

 

大村との対立で暗殺疑惑→新政府で出世できず

薩摩藩と長州藩は、京都における争い(禁門の変)等で、激しい対立関係にありました。

しかし、薩長同盟前夜ともなると、徐々に雪解けの気配も見えてきます。

よく知られた坂本龍馬中岡慎太郎の他に、薩摩藩でも村田新八桂久武小松帯刀らも長州藩との和解に尽力するわけです。

が、当然ながら例外もおり、その代表格が海江田なのです。

戊辰戦争において海江田は、東海道先鋒総督参謀として従軍していました。

ところが、長州藩の大村益次郎のやり方にブチギレて、大変なことになります。

「お前は戦をなんも知らんじゃね」

「こん長州もんが、斬い捨ててやう!」

海江田は長州藩から危険人物としてマークされたほど。

大村が暗殺されると、海江田が犯人じゃないの?とすら噂されました。

大村益次郎/国立国会図書館蔵

海江田は「大村を殺しておらん」と否定するのですが、長州関係者は納得しません。

明治維新以降、海江田があまり出世できなかったのは、長州藩から危険視されたせいだとも言われています。

武功ではなくて、こんな歴史ばかりが残ってしまうというのも残念ですが……。

 

西郷と距離感あったゆえの長生きか

前述の通り、明治維新後の海江田は長州藩から嫌われたこともあり、大きくは出世できませんでした。

鹿児島に戻ってからも、西郷と親しくなるというより、島津久光との距離が近くなります。

そのせいでしょうか。

明治10年(1877年)【西南戦争】には不参加。

西南戦争開戦のキッカケ
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むろん彼らを憎んでいたとかそんな安直な理由ではなく、翌明治11年(1878年)に大久保が暗殺されると聞き、その死を悼んでおります。

彼自身は明治39年(1906年)に死去。

享年75でした。

『西郷どん』に出てくる郷中仲間の中で海江田は最も長生きしました。

西郷の仲間といっても全員が優秀であったわけでもなく、海江田はそれなりの能力だったのかもしれません。

島津久光と距離が近く、西郷の関連作品ではマイナス評価されがちですので、そのへんも考慮しておく必要がありそうです。


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【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon
『国史大辞典』
ほか

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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