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志士時代の伊藤博文/wikipediaより引用

幕末・維新

伊藤博文69年の生涯をスッキリ解説!足軽の子が日本初の総理大臣になるまで

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豊臣秀吉の出世物語があまりに華々しいせいか。

同じく【足軽→日本のTOP】に4度立ったにもかかわらず、その点、ほとんど注目されない人物がおります。
どなたか、ご想像つきますか?

伊藤博文――。
そうです、日本初の総理大臣にまでなった人物です。

しかしこの伊藤、ちょっと誤解が多い。

歴史の授業では、明治時代で少し経ってから名前が出てくるため、元々が
「長州藩士であり幕末期に活躍した松下村塾生の一人だった」
というと、多くの方が『えっ!?』と驚かれます。

幕末期まで振り返れば、伊藤は決してポッと出の侍ではありません。
幼き頃より松下村塾で学び、吉田松陰にも認められていたのです。

本日は、その点も含めて伊藤博文の生涯を追ってみましょう。

 

松下村塾のスターたちよりちょっと歳下

後に伊藤博文となる赤ん坊は、天保12年(1841年)、周防国熊毛郡束荷村(現山口県光市)に生まれました。

父は林十蔵。母は琴子。
長州藩士と言えば真っ先に『松下村塾』を思い浮かびますが、伊藤は彼らの中心世代より若干歳下になります。

【吉田松陰】11歳年長(天保元年誕生)
桂小五郎木戸孝允)】8歳年長
【入江九一】4歳年長
【山県有朋】3歳年長
高杉晋作】2歳年長
久坂玄瑞】1歳年長
吉田稔麿】同年(天保12年誕生)

錚々たるメンバーが並びますね。

彼ら松下村塾生の特徴は、幕末動乱期での死亡率が非常に高いことが挙げられます。
一方、生き永らえた者は、それこそ日本おトップに上り詰めるような大出世を果たした者もいます。

吉田松陰/wikipediaより引用

赤ん坊の頃の話に戻りましょう。

それは夫妻にとって待望の子でした。
二人の間には結婚後3年間子供が出来ず、母がさんざん神頼みして誕生したのです。

欧米の国外進出によって、世界が動乱の渦に巻き込まれていった時代。
彼が産声をあげる前年、お隣、清国ではアヘン戦争が始まり、日本国内でも天保の改革、萩では藩政改革が行われておりました。

 

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ペリー来航後 父が足軽の家に養子入り

嘉永6年(1853年)。
幼い彼が萩へ移住した四年後、黒船が浦賀に来港しました。

この頃から日本は、いわゆる幕末期へと突入。
翌安政元年(1854年)正月、父・十蔵は萩藩の中間・伊藤直右衛門の養子となりました。

彼も伊藤姓の足軽となりました。

足軽ながらも藩士の一員となった伊藤は、久保五郎左衛門の塾に通えるようになりました。
成績優秀。
幼少の頃より才気あふれる存在でしたが、一人叶わない少年がいました。

吉田稔麿です。

松下村塾では、高杉晋作や久坂玄瑞と並ぶ俊英ですから、仕方のなかったことかもしれません。

吉田稔麿/wikipediaより引用

【関連記事】吉田稔麿

黒船来航で世の中が騒然とする中、長州藩も相模湾の警備を実施。
安政4年(1857年)、伊藤は来原良蔵に教え受けるようになり、来原は、萩に戻る伊藤に紹介状を書きました。

「吉田松陰の松下村塾でさらに学べ――」

 

入塾翌年 京都派遣メンバーに推挙される

こうして伊藤は松下村塾に参加することになりました。

松下村塾に関してよくある誤解の一つに、
【身分を問わない】
というものがあります。

確かに現代においては、そちらの方がイメージ良く、また面白い存在でもあるものです。

しかし実際は、構成員を見る限り武士階層が優遇。
受講生すべて」が平等に扱われていたわけではありません。

元々は武士ではない――武士としても最下層である伊藤も、やはり格差に直面しました。

単純に言えばお金がないワケで。
旧知の吉田稔麿から書物を譲り受ける等して、乗り切ります。

そして入塾した翌年の安政5年(1858年)には、吉田松陰の推薦メンバーの一人に選ばれ、京都に派遣されました。

いったい松陰は、伊藤のことをどう思っていたのでしょう?
久坂宛の手紙によるとこうあります。

「利介(伊藤のこと)亦進む、中々周旋家になりきふな」
(伊藤はまた学問が進歩した。なかなかの交渉役になりそうだ)

「才劣り幼きも、剛直にして華なし、僕頗る之れを愛す」
(才能は劣り学問でも未熟だが、剛直な性格で地味だ。僕はこの弟子をとても愛している)

こうした評価は、伊藤が当時16歳、高校生程度であったことも考慮すべきでしょう。

右から三谷国松、高杉晋作、伊藤博文/wikipediaより引用

 

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安政の大獄で師匠は処刑され

京都での伊藤は、山県有朋と親交を結びました。

そのあと来原に率いられ、安政6年(1859年)まで長崎で修学。江戸でも修行に励み、来原の義兄・木戸孝允(桂小五郎)の従者となって、志道聞多(井上馨)とも親交を結んでいます。

後に日本を動かす藩の中心メンバーと関わっていたんですな。

しかしこの年の秋、松下村塾にとっては大激震が走ります。

井伊直弼の「安政の大獄」により吉田松陰が処刑されたのです。

開国したことにさせられた井伊直弼がガチギレ! 安政の大獄はじまる

原因は、
・外国への密航を企て
・幕政を批判したから
と誤解されがちです。

確かに、そうした要素もあったかもしれませんが、決定打は
・老中である間部詮勝の暗殺計画を建てていた
・しかもそれを自白した
ことでした。

そもそもこうした計画は松陰の暴走で、塾生たちも困り果て、止めに入ろうとしたほどです。
が、時すでに遅し。

江戸にいた伊藤は、師匠の遺骸を引き取りました。
このとき彼は、まだ18歳。

そして松陰の死から、松下村塾の面々は様々な道を歩むようになります。

彼らの存在アピールに欠かせなかったのが、より激しい攘夷です。

文久2年(1862年)、松下村塾生は【公武合体論】を主張する長井雅楽の暗殺を画策。
そして同年8月、伊藤にとって師であった来原が自害してしまいます。来原は、長井雅楽の政策を支持しており、それが通らないことに苦悩していたのです。

過激化していく時勢の中で、伊藤も傾倒。
この年の12月には、品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加しています。
そこで山尾庸三と塙次郎忠宝・加藤甲次郎を斬殺し、21歳にして、尊皇攘夷派の過激な活動家になったのでした。

 

攘夷よりも、海外へ

しかし伊藤は、他の松下村塾生とは異なる道を歩むことになりました。

前述の通り松下村塾生の主力は、激しい攘夷活動に打ち込み、その結果、明治維新まで生き延びられずに斃れた人物がたくさんいます。
久坂玄瑞や吉田稔麿のように。

伊藤がこうした同門と袂を分かった一因が、吉田松陰以外に来原良蔵という師匠がいたことも大きいようです。

文久3年(1863年)、伊藤は尊皇攘夷の支持者であるということから、準士雇(じゅんさむらいやとい)に出世しました。このように、長州藩で出世するためには攘夷思想=外国排除が必須のはずです。

しかし、伊藤には生涯の師と慕っていた来原から受けた教えもありました。
それが実ったからこそ、イギリスという異国へ留学することになるのです。

1863年、井上馨と共にイギリスへ。

久坂は、「攘夷より他に道はない」と止めましたが、伊藤の決意は固いものでした。
このときの留学生は【長州五傑(長州ファイブ)】と称されます。

長州五傑・下記の通り伊藤は上段右

【長州五傑】
・遠藤謹助(上段左)
・野村弥吉(上段中央)
・伊藤俊輔(上段右)
・井上聞多(下段左)
・山尾庸三(下段右)

ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに在学した伊藤の留学期間は半年程度。
その後、イギリスの軍艦で帰国することになりました。




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ヴィクトリア朝大英帝国の国力をまざまざと見せつけられ、このときから開国派に転換します。

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