島津久光/wikipediaより引用

幕末・維新

島津久光71年の生涯をスッキリ解説! 西郷隆盛の敵というのは本当か?

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大河ドラマ『西郷どん』で“西郷生涯の敵”と称されるキャラクターが登場しました。

島津久光――。
ドラマでは青木崇高さんが演じ、渡辺謙さん扮する島津斉彬(なりあきら)の異母弟となります。

斉彬は、西郷あこがれの名君です。
その弟である久光が、なぜ西郷の敵となるのか?

史実はどうなっているのか……。
と、疑問を抱いた方もおられるかもしれません。

そこで本稿では、フィクションの要素を削ぎ落とし、できるだけ偏りのない視点から島津久光の一生にアプローチしてみたいと思います。

西郷生涯の敵って、一体何があったのか?

 

久光の略歴

まずは簡単な経歴から。

久光の父は島津斉興(なりおき・鹿賀丈史さん)で、母は側室の由羅(小柳ルミ子さん)。

島津斉興/Wikipediaより引用

最初に断っておきますと、兄の斉彬は藩主になっておりますが、久光自身はその座には就いてはおりません。

されど幕末の薩摩藩における久光の存在は、決して小さくない……というか、かなり大きい。
でも、藩主ではない。

そこがどうにもシックリ来ない方もおられますので、まずは幕末薩摩の藩主をチャートで確認しておきますと。

【幕末薩摩藩の系図】
父・島津斉興 第10代藩主(鹿賀丈史さん)

兄・島津斉彬 第11代藩主(渡辺謙さん)

弟・島津久光 藩主ならず(青木崇高さん)

子・島津忠義 第12代藩主(久光の息子)

※薩摩藩になってからの藩主で表記(島津氏当主として数えますと斉興→27代、斉彬→28代、忠義→29代となります。

父・斉興と兄・斉彬の次に家督を継いだのは、弟・久光の実子である忠義でした。
斉彬が跡継ぎのいないまま亡くなったため、忠義がいったん斉彬の養子となってから、藩主の座を継いだのです。

しかし彼はまだ若く、政治的実権を握ったのが久光でした。
ゆえに薩摩では「国父(父のように尊敬される人)」として多くの藩士から愛されてもおりました。

大河ドラマでは、“単純な悪役”に描かれてしまうおそれもありますが、初めに断っておきますと、決して無能な人ではないのです。

一方、“生涯の敵”とされてしまった西郷との相性が悪かったのも否定しきれぬところでして。

久光は、西郷のことを「安禄山」と呼んでいました。

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久光が西郷をそんな悪臣に喩えたりしたのにもちゃんと理由はありまして。

一体、2人の間には何があったのか。
ここから先、本編では久光の生涯を通じ、その関係も合わせて見ていきたいと思います。

 

生母は由羅

文化14年(1817年)10月24日、島津久光(本稿ではこの名で統一)が誕生しました。

幼名は普之進(かねのしん)。
乳幼児の夭折が珍しくない時代でしたが、幼い久光は健康で、賢く、心優しい少年に育ちました。

異母兄・島津斉彬との関係は決して悪くはありません。
ただし、兄弟で異なる点もありました。

兄・斉彬が蘭学好みであったのに対し、弟・久光は国学や儒教を重視する傾向がありました。

そんな兄弟が、それぞれの派閥の藩士たちに担がれて対立したのが、お由羅騒動です。

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詳細は上記の記事に譲り、ここでは彼女の性格や要点だけを説明させていただきますと……。

まず、ドラマやフィクションでは毒々しい悪女として描かれがちな由羅ですが、当時の彼女を知る人の証言では「上品な女性」、あるいは「美しく賢さを兼ね備えた女性」であったという評価です。

考えてみれば、そのほうが自然かと思います。

身分の低い町娘から、薩摩藩主・島津斉興の側室になった彼女。シンデレラストーリーを歩んだ女性というのは、とにかく悪く言われがちなものです。
徳川綱吉の生母・桂昌院あたりもそうですね。

しかし、史実においては一歩引いて考える必要がありそうです。

お由羅騒動のキッカケともなった、彼女の「呪詛」の件。
呪詛とは、一言で言えば「呪い」ですね。

当時、島津斉彬の子どもたちが次々に亡くなるのですが、これが由羅の呪いのせいだと斉彬派の間では語られるようになりました。
そこから「由羅を殺す!」という物騒なところまで発展して、結果的に「お由羅騒動」というお家騒動になってしまうのです。

跡継ぎ候補の「斉彬派vs久光派」ということで、薩摩藩が真っ二つに割れてしまいました。

結果、由羅は殺されること無く、逆に、50名ほどの斉彬派藩士が処罰の対象になり、西郷の上司・赤山靱負(沢村一樹さん)にいたっては切腹という事態にまで陥ってしまいます。

そこで、由羅が行ったという「呪詛」ですが……。

実は、外国の脅威を彼女なりに退けたいと考え、祈祷したものが勝手に誤解されたとも言われておりまして。
斉彬も、我が子が次々と亡くなるため、その苛立ちを由羅にぶつけたところがありました。

つまりは八つ当たりに近く、視点を変えれば、彼女自身が名誉毀損の被害者じゃないの? とも考えられるワケです。

 

兄・斉彬との兄弟仲

事件のあらましだけ聞くと、なんともやりきれない流れ。
当の斉彬・久光兄弟は、跡継ぎのことをどう考えていたのか?

というと、久光は兄にかわって藩主になろうとはまったく考えていませんでした。
むしろ、担ぎ上げられて困惑していたようです。

しかし、この騒動で西郷や大久保たちの印象が悪くなったのは否めないところで、不運だったとしか言いようがありません。

ともかく、このお由羅騒動の結果を受け、嘉永4年(1851年)、兄弟の父・島津斉興は斉彬に家督を譲ることとなりました。

ここで斉興が久光に宛てた書状から、斉興の見た斉彬の性格について記しておきます。

・性格は猜疑心が強い
・肝っ玉が小さく、度胸がない
・世間の流行ばかり追いかけて、無用の物好きである
・藩士と気持ちが合わない、不安だ

どうにもフィクションで描かれるような、豪快で英邁な斉彬像とは違うようです。
ただ、言われてみれば、斉彬の子の死を由羅の呪詛と決めつけたところからして、猜疑心というのは否定はできなさそうです。

「世間の流行ばかり追いかけて、無用の物好き」というのは、蘭癖のことでしょう。
こればかりは考え方の違いで言いがかりのような気もします。

・先進的で西洋に目を向けていた長所
と見なすこともできれば、
・役に立つかわからないことに金をつぎ込む短所
と捉えることもできるからです。

一方、藩主となった斉彬は、弟の久光を信頼していました。

島津斉彬像

斉彬は欧米列強についても心配して備えていましたが、それ以上に警戒していたことがあります。

内戦です。

清で起こった太平天国の乱が、国そのものを弱体化させ、結果的に外国からの侵略をゆるしてしまった――斉彬はそう考えておりました。
幕府の政治があやまった方向に向かい、結果として内乱が起こることこそ危険だと考えていたわけですね。

斉彬は、久光にこのことを伝えており、久光も深く理解していました。
2人の間の書状からは、互いの信頼感を前提に書かれていることが見受けられ、兄弟仲が決して悪くないと判断できそうです。

 

久光と「精忠組」

安政5年(1858年)7月16日、斉彬は世を去りました。

後継者として藩主となったのは、久光の長男・忠義(本稿はこの名で統一)です。
まだ若い忠義にかわって、実権は久光が握ることとになりました。

島津忠義/Wikipediaより引用

このころ中央の政界では、幕府の大老・井伊直弼による「安政の大獄」が猛威を振るっておりました。

おさらいをしておきますと、「安政の大獄」とは、倒幕派の弾圧そのものを目的としたものではありません。
背後にあるのは、次期将軍を誰にするかという問題。
この政治闘争において、薩摩藩の支持していた一橋派が敗北し、かくして薩摩藩関係者も処分されたのです。

これに怒り、暴走気味になったのが若手藩士たちでした。
薩摩藩士はコントロールの利かない暴走を見せるようになり始めます。

これは何も薩摩だけのことではなく、水戸藩や長州藩も同じでして。どの藩でも頭を悩ませておりました。

激発しかねない薩摩・若手藩士たちの一団「精忠組」は、大久保利通(本稿はこの名で統一)らに率いられていました。
彼らは、脱藩して京都に向かい、所司代を打倒しようという計画を推し進めようとします。

この危険な計画が、藩主父子の耳に入り、忠義はそこでこう約束しました。

1. いざという時は、藩主を中心として藩全体で行動する
2. 斉彬様の遺志を守り、日本を天皇中心とした国にするべく力を尽くす
3. だからそうなった時は、藩主を支えて頑張ってくれ

要するに、藩全体で行動するから、単独行動で暴発するような真似はやめろ、ということです。
まだ若い忠義一人で考えたわけではなく、実質的には背後にいた久光の考えです。

のちに久光は、大久保利通と面会しました。

お由羅騒動で痛い目を見ている大久保は、そのお由羅の子である久光に対して先入観がありました。
が、この面会でそうしたわだかまりは氷解します。
「精忠組」と久光の間には深い信頼関係が築かれたのです。

久光は慎重であり、賢明な判断を下していました。
のちに彼と対立する西郷ですら、久光のことを「周公旦」(古代中国の名君)と呼び、褒め称えているほど。

そして安政7年(1860年)3月3日。
桜田門外の変」が発生し、大老・井伊直弼が殺害されます。

「桜田門外の変」を描いた様子/Wikipediaより引用

大久保はこれを機に出兵したいと久光に提案しました。
が、久光は時期尚早と退けるとともに、深い疑念を抱いておりました。

「事件に関わった有村兄弟(有村雄助・有村次左衛門)は……とんでもない不忠不孝である。よもや関わってはおるまいな? このことに関して、私はひどく怒っているのだが」
こう言われて、大久保は焦り、弁解するほかありません。

久光は、有村兄弟の行動に苦り切っていました。
その一方で、もしも一橋派が武力で立ち上がるのであれば協力する気もあります。必ずしも大久保の提案に反対するわけではありません。
兄・斉彬と対立していた井伊直弼の死に関しては、むしろ当然と思う部分もありました。

問題は、タイミングです。

慎重に時期を待たずに暴発すれば危うい。
この久光の危惧は、幕末に水戸藩が陥った危機を思い出せば、納得できるものです。

久光は軽挙妄動を慎み、あくまで勅命を得て行動するつもりでした。
決して愚鈍でも短絡的な人間でもなかったのです。

 

久光、東へ

桜田門外の変で、幕府の権威は失墜しました。

次に権力を握るのは、誰なのか。熾烈なパワーゲームが始まります。

久光はこのころ、兵乱が起こることを待っておりました。
しかし、どうにもその気配はありません。

時局が動かないのであれば、こちらから動く――。
時機到来を待ち受けていた久光が目を付けたのが、将軍・徳川家茂と皇女・和宮の婚礼による「公武合体」です。

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1. 和宮が東に向かうとなれば、その御身が将軍家の意向のままとなってしまう
2. ここで改めて「皇国復古」を成し遂げたい。とはいえ、「安政の大獄」のようなことになっても困るから、牽制しなければなるまい。今こそ大久保ら精忠組との約束を守り、出兵する時が来たのだ
3. そのためには、滞在して京都守護をする詔勅を求めたい
4. そのうえで、朝廷から勅使を江戸に派遣し、改革を行う

久光の計画は、慎重かつ冷静なものでした。

藩全体が暴発した水戸藩。
過激派が暴走気味で、御所を襲撃するに至った長州藩。
京都守護職として、孝明天皇の信頼を背後に勢力を伸ばすものの、没落した会津藩。

そうした藩と比較すると、薩摩藩は混乱を極める政局の中、浮沈もなく常に一歩リードしていました。

そうした手柄は、大久保や西郷のものとされてきました。
しかし、久光の判断も的確であったことが過小評価されているのではないでしょうか。

 

「アナタ、ぶっちゃけ“田舎者”っすわ」

京都に乗り込み、政局をリードする――。
そう決意を固めた久光に水を差す人物が現れました。

西郷隆盛(本稿はこの名で統一)です。

月照と心中未遂したあと、奄美大島に流されていた西郷。
島から戻って久光と和解する流れになっていたのですが、西郷はなんと、こう言い放ったというのです。

「御前には恐れながら“地ゴロ”」
(殿様だから言いにくいけど、アナタ、ぶっちゃけ“田舎者”っすわ)

久光はショックを受けました。

藩主の父であり、幼い頃から英邁とされてきて、大久保ら藩士との意思疎通もうまくいっていた。
それが下級藩士の西郷にここまで言われたのですから、はらわたが煮えくり返ったことでしょう。

西郷にすれば、久光の器が小さいとかそんなことよりも、名目上は藩主ではなく、その父に過ぎず、無位無冠ではないか――そういう思いもあったのでしょう。

一般的なイメージでは、思い切って改革を断行する西郷と、保守的でその邪魔をする久光という像があります。
ただし、この上洛に関しては逆です。
官位という既成の概念を無視して挑戦しようと意欲みなぎる久光と、しきたりがあるから出来るわけがないと消極的な西郷という対立構造だったと考える方が自然です。

これには大久保も困り果てました。
西郷は脚が痛いと温泉に引きこもって、前線からの引退すら臭わせてしまうのです。
それでもなんとか西郷を説得し、京都に先発させました。

しかしこのとき、西郷は暴走してしまいます。
下関で待機せよ、という命令を無視して大坂に向かってしまったのです。

田舎者呼ばわりされた耐えてきた久光も、さすがにこの勝手な行動は許せぬと大激怒。
大久保が間に入ろうとしますが、彼との面会すら拒み、結局、これがキッカケで、西郷は徳之島・沖永良部島遠流とされてしまいます。

果たして悪いのは久光だったのでしょうか?
これにはそう単純に言い切れぬ深い理由があったと推察します。

西郷はそもそも、幕府から見れば死んだはずの人間でした。
一度目の遠流の際に処刑されてもおかしくないところを、命を助けて政界にまで連れ戻し、重用したわけです。
公式には死んだ存在ですから、できるだけ目立たないよう行動を取って欲しいというのが、久光側の本音です。

そもそも実質的に藩主といえる久光を軽視し、命令まで無視するというのは、忠誠心という面でも問題ありと思われます。

でもなぜこの二人は、こうも不仲なのか?

久光の器が斉彬より小さかったとか、斉彬を崇拝していた西郷からすると物足りないとか、後世においても色々と言われています。
その多くが久光側の問題とされています。

しかし、本当にそれだけなのでしょうか。

西郷の態度にも問題がありましょう。
幕末武士の、主君に対する態度として、さすがに問題があると言わざるを得ません。

西郷が誰からも好かれる人柄というのはあくまで創作物のイメージであり、実際には敵も多かったとされています。
自分と合わない性格の人間には、冷たい態度であり、恨みを忘れない執念深さもありました。

斉彬の存在は、その西郷の性格的な欠点を際立たせているのではないでしょうか。
一般的に「英雄・西郷が正しい」という視点にされてしまうため、反対に久光の人物像が悪く描かれがちになります。

更には両者とも、自分こそが斉彬の遺志を継ぐ者だと自負していたことも、対立の原因かもしれません。
いわゆる「同族嫌悪」という感情ですね。

 

久光、上洛す

文久2年(1862年)、春。
武装した島津久光が、兵を率いて京都に向かう――。

この一報は、幕末の政局にショックを与えました。
西郷は成功する見込みもないと冷淡でしたが、そんなことことはありません。

むしろ、藩主本人ではなく、藩主の父という立場でありながら、これほどまでのことをするということに、世間は驚きました。
無位無冠だろうと、完全武装の物々しい一団です。
無下にあしらうこともできるわけがない。

斉彬の遺志を継ぎ、武力をちらつかせながら皇国の発展を目指し、幕府に圧力をかけようとする久光。
政局を動かす力が実際にはありました。

京都において、久光は暴発気味の過激派尊皇攘夷藩士を処断しました(「寺田屋騒動」)。
自らの藩士たちを斬って騒動を治めるという流血沙汰を起こしながら、久光はかえって評価をあげました。

家臣であろうと、不穏な暴走をする藩士は、断固たる処断。
不穏な動きが高まる京都において、その果断ぶりが賞賛されたのです。

さらにこの犠牲は、久光の覚悟をも強めました。
流血すら強いられたのであるから、もはや引っ込みがつきません。
断固として勅命を得て、幕政を改革せねばならない。そう決意を固めました。

 

生麦事件

久光の運動が実り、幕府への勅使派遣が決まりました。

このとき、勅使が幕府につきつけた要求は、以下の三条件です。

1. 将軍・徳川家茂が諸大名を率いて上洛し、朝廷で朝政を行う
2. 沿海5大藩主(薩摩藩島津家・長州藩毛利家・土佐藩山内家・仙台藩伊達家・加賀藩前田家)を五大老として幕政に参加させる
3. 一橋慶喜の将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽(慶永)を大老職として就任させる

当時の久光は、慶喜とも春嶽とも面識はありませんが、亡き斉彬が両者と親しくしていました。
そのことから推薦したのでしょう。

このとき、久光が薩摩藩主になりたいと運動をした、官位を欲しがった、とも言われています。
これは周囲が勝手にやったことで、久光は特に希望していなかったようです。
うちの殿様にも肩書きがあった方が動きやすいだろうという「忖度」なのでしょうが、久光としてはありがた迷惑なこと。

久光はそういうことにこだわらないタイプでした。

久光が江戸に入る前、薩摩藩邸が焼失していました。江戸に入る理由のひとつとして、藩邸再建監督という名目もあったのです。
しかし、実は薩摩藩士が焼いていたと、幕府にバレました。いわゆる自作自演ですね。

「江戸に来る理由のために、わざと藩邸を焼くとは……」
幕府は呆れ、久光への心証が最悪になってしまいます。

さらにこの江戸行きで、思わぬ事件が起こります。
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久光は、帰路、京都に立ち寄りました。

そこは以前とはうって変わり、ますます騒然とした場所に変わっていました。
諸藩のパワーゲームの場と化し騒乱の中心として荒れまくっていたのです。

ここで久光は公武合体運動を行いますが、孝明天皇や諸侯と意見が折り合わず、挫折を味わうことになります。
仕方なく、いったん帰国することとなりました。

西郷は無謀な暴挙とあきれて諫めた、久光の計画。
むろん西郷が間違っていたとは言えません。無位無冠の藩主でもない人物が、政局を動かすとは考えられないことでした。

しかし、久光はやってのけたのです。彼の度胸が成功をおさめました。
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