岩倉具視/wikipediaより引用

幕末・維新

岩倉具視は幕末貴族の出世頭! キャラ奇抜でバランス感覚に優れた政治家?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
岩倉具視
をクリックお願いします。

 

京都で公家社会の改革も推し進めた

戊辰戦争が続く間、岩倉たちは新しい政府の枠組みを作り始めました。

三条実美が徳川家始末のため新政府軍とともに江戸へ行っていたので、京での中心は岩倉になったのです。

三条実美55年の生涯と七卿落ち~岩倉に並ぶ幕末維新の公家代表はどんな人?

続きを見る

宿直(とのい・公家が泊まりこみで朝廷に勤めること)や人数の大幅削減など、大胆な改革を実行。反発も大きかったようですが、岩倉は「御一新のためには幕府を倒すだけでなく、公家社会も変えなければいけない」と強く思っていたのでしょう。

また、明治天皇が江戸に行って一度京都に戻ってくるまでの間、岩倉も随行しています。その直後に病気を理由として岩倉は辞職してしまいましたが。

明治天皇の功績&エピソードまとめ! 現代皇室の礎を築いたお人柄とは

続きを見る

仕事辞めたがりすぎ……といいたいところですけれども、文字通り東奔西走の働きをしていた人ですから、体にガタが来ても無理はないですね。

その後は新政府に関する意見書を出していますが、事細かにあれこれ言うというよりは、全体としての枠組みをこうすべきだ、という点だけを書いています。本当に「意見」を書いたものという感じです。

 

木戸や大久保、伊藤と共に約2年 岩倉遣欧使節へ

体調が回復したのか、岩倉は廃藩置県の後に外務卿(後の外務大臣)に就任しました。

日米修好通商条約は1872年7月1日までは改正のための交渉もできないことになっていたので、そろそろ改正を頼みにいかなければならない時期。

しかし、法整備が整っていなければ「まだまだ未開国みたいだからダメwwwwww」と言われるのは目に見えていたので、西洋の文物を学ぶことが急務となります。

これが日本史上一・二を争う壮大なお使い・岩倉遣欧使節です。

岩倉使節団はトホホでお粗末……だから明治六年政変の西郷下野につながった?

続きを見る

岩倉を特命全権大使とし、副使には木戸孝允大久保利通伊藤博文というビッグネームが随行。
1年10ヶ月の旅で、条約改正までは達成できませんでしたが、直接西洋を見たことで岩倉は日本を導く方向を決めたとされています。

中でも興味を惹かれ、日本にも必要になると考えたのが鉄道でした。

JR東日本の前身にあたる日本鉄道は、高島嘉右衛門(かえもん)という実業家に推され、岩倉らが創立したものです。

また、征韓論で政府が揺れた際には、反対を唱えています。

秀吉時代のこともあり、「朝鮮に攻め入れば清を敵に回すことになる」という理由からでした。
この頃もう清は名ばかりの存在になっていますけれども、その代わりに欧米の出方をうかがわなければなりませんし。

そのせいで、征韓論の支持者から襲撃されるという事件が起きています。
多少の怪我で済んだのは不幸中の幸いでした。何せ、岩倉を含めた「維新の十傑」は四人も暗殺されていますからね。

岩倉使節団の頃の木戸孝允(左)。ほかは左から山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)/wikipediaより引用

 

岩倉の意向で伊藤博文が大日本帝国憲法を起草

間もなく、征韓論を強く推していた西郷隆盛西南戦争で自害、この件はひとまず片付きました。

が、一難去ってまた一難。新たな問題が噴出します。
それまでの公家と武家をまとめて「華族」としたため、旧来の身分や家柄による衝突が絶えなかったのです。まあ、そう簡単に先祖代々・数百年の考え方を変えられませんよね。

岩倉は華族の統制を図るために工夫をこらしましたが、岩倉自身が公家出身であることから、武家出身の人々は「公家出身者ばかりヒイキしないでください!!」と猛反発。
最終的には議会に貴族院が作られ、華族の役割がはっきりしたことで決着をみます。血みどろにならなくてよかったよかった。

また、立憲について、当初の岩倉は反対でした。これは、自由民権運動が高まり、政府の中でも憲法の必要性が叫ばれるようになってから、岩倉も考えを改めたとされています。
大隈重信はイギリス、伊藤博文はドイツを手本とするべきともめていたのを、岩倉が伊藤に任せることにして決着させました。
伊藤はその後ベルリンやウィーンで学び、大日本帝国憲法の起草をすることになります。

 

明治天皇直々の見舞いまで持ちこたえ、7月20日に死去

何でもかんでも最後には岩倉が決めていたような感がありますが、実は明治十六年(1883年)頃から体調が悪化していたようです。

それでも仕事を続けていたからか、明治天皇の勅命で、当時東大医学部の教鞭を執っていたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツが診察したときには、「咽頭がんで切除は不可能」という結果が出てしまっています。

エルヴィン・フォン・ベルツ お雇い外国人から見た日本の良いとこ悪いとこ

続きを見る

ちなみに、これが日本初のがん告知だったとか。岩倉は「そんなんで日本初になっても嬉しくない」と思ったでしょうね。

咽頭がんには上咽頭がんと下咽頭がんがあり、岩倉がどちらだったのかはっきりしないのですが……彼の死因について調べると、孝明天皇の暗殺疑惑のほうが出てきちゃうんですよね(´・ω・`) そこじゃないんだよ!

上咽頭がんは鼻の奥、下咽頭がんはのどぼとけの後ろ~食道のあたりにできるものなので、どんな症状だったかがわかればはっきりするのですけれども。胃がん説もあるようですし、上咽頭がんは日本人には少ないそうですから、下咽頭がんのほうが確率は高そうですかね。

現在、咽頭がんは手術もしくは放射線治療を行いますが、当時はまだX線すら発見されていません。

しかし、手術をしたとしても、声が出なくなる可能性が高いんだとか……。いずれにせよ、政界には残れなかった可能性が大ですね。

岩倉は明治天皇直々の見舞いの次の日まで持ちこたえ、7月20日に亡くなりました。

彼が最後に手がけていたのは、京都御所の保存に関することです。これによって今日の京都御苑の整備が始まることになります。極端な改革ばかりを好んでいたのではなく、「日本の良いものは残していこう」と考えていたことがよくわかりますね。

決して高くはない身分から、才覚でもって新しい政府の中心となり、それでもなお西洋一色に染まることを良しとしなかった、そんな岩倉の人生……とまとめると、ちょっと綺麗すぎますかね。

堀田正睦は優秀な開明派だが幕府と朝廷に挟まれパンク寸前! 55年の生涯

続きを見る

孝明天皇を知れば幕末のゴタゴタが超わかる! 謎に包まれた御意志とは

続きを見る

安政の大獄における井伊の目的は? 泥沼の政権抗争を終息させるためだった

続きを見る

桜田門外の変で井伊直弼の首をとったのは? 薩摩浪士の有村次左衛門

続きを見る

井伊直弼は生まれたときから波乱万丈~桜田門外に散るまで46年の生涯まとめ

続きを見る

禁門の変(蛤御門の変)御所に発砲した長州と天皇の意を汲んだ会津の因縁が

続きを見る

大政奉還を実行したのになぜ戊辰戦争は始まった?幕末混乱期のクライマックス

続きを見る

三条実美55年の生涯と七卿落ち~岩倉に並ぶ幕末維新の公家代表はどんな人?

続きを見る

明治天皇の功績&エピソードまとめ! 現代皇室の礎を築いたお人柄とは

続きを見る

岩倉使節団はトホホでお粗末……だから明治六年政変の西郷下野につながった?

続きを見る

エルヴィン・フォン・ベルツ お雇い外国人から見た日本の良いとこ悪いとこ

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon
『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon
岩倉具視
/wikipedia

 



-幕末・維新
-,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.