安藤信正/Wikipediaより引用

幕末・維新

安藤信正が襲われた「坂下門外の変」背中に受けた傷が政治的致命傷となった

日本の歴史上に何度も登場する「ナントカの変」。

一番有名なのは、大老・井伊直弼安政の大獄などの反発をモロにくらって殺された「桜田門外の変」ですかね。

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幕末の中でも極めて物騒な事件として知られます。

が、この時代には他にも恐ろしい事件があり、有能な政治家が表舞台から追いやられてしまってます。

文久二年(1862年)に起きた坂下門外の変もその一例でしょう。

老中の安藤信正が襲撃され、そのとき負った傷がもとで罷免へと追い込まれました。

老中というと、なんだかふんぞり返ってるイメージもあるかもしれませんが、この人はこの時期の幕閣としては極めて優秀だったのです。

 

老中・安藤信正が襲われた坂下門外の変

彼の功績は、まず【桜田門外の変】の後始末をやってのけたこと。

当時は十四代・徳川家茂が将軍職に就いたばかりで、しかもまだ12歳という幼さでした。

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そんなときに幕閣トップの大老が暗殺されたと世間に知れたら、一大事どころではありません。

直弼暗殺の理由の中には、開国させられたことへの不満も含まれていたからです。

こうしたバカでかい不祥事が立て続けにおきたことがもし朝廷の耳に入れば、「だから開国なんかすんなって言ったのに!もう幕府なんていらんわ!!」となるのは目に見えていました。

 

被害者が悲惨すぎる「襲われたほうも悪い」という理屈

そこで信正を始めとした幕閣は、直弼暗殺の事実を隠しに隠します。

この時代どういうわけか「襲われたほうもけしからん」ということになっていました。

なので、うっかり直弼がコロされたことを正直に公表すると

「よっしゃ、彦根藩も取り潰しね! 譜代だけど襲われたんだから仕方ないよね!」

という誰も得しない事態になってしまうおそれがありました。

もしかすると、元禄赤穂事件の教訓から「喧嘩両成敗」が不文律になっていたのかもしれません。

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この件については世間でいろいろ狂歌が詠まれていますので、江戸っ子にはバレバレだったようですが。

なにはともあれ、後に残された信正たちはもう一度幕府を安定させるべく奔走します。

公武合体の方針も、信正が「朝廷と穏便にやっていきましょう。私に考えがありますから」と考え出したものです。

大雑把にいえば、信正は家茂と和宮の仲人ということになりますかね。

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その他にも世情を安定させるための経済政策を打ち出すなど、家茂の治世を支えました。

なにせこの間、アメリカ公使館の通訳が薩摩藩士にブッコロされるというどう考えても国際問題モノの事件が起きています。

ちょうどアメリカが南北戦争中だったこともあり、うまく丸め込むことができたのですが、これを穏便に処理したのも信正でした。

彼以外の人間が担当していたらどうなっていたやら……。

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