安政五年(1858年)7月6日は、江戸幕府十三代将軍・徳川家定が亡くなった日です。
大河ドラマ『篤姫』では堺雅人さんが演じられ、『西郷どん』では又吉直樹さん、『青天を衝け』では渡辺大知さんでしたね。
一般的には身体が病弱かつメンタル面でも問題のありそうな描かれ方をしますが、果たして史実はどうだったのか。
徳川家定の生涯を振り返ってみましょう。
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病気が続き人間嫌い 人前に出るのを嫌がった
家定の父である十二代将軍・徳川家慶は子沢山でした。
が、当時の衛生・栄養状態のためか、成人したのは家定だけ。
その家定もやはり病弱で、それに気後れしてか人前に出るのをひどく嫌がったといわれています。安心できたのは乳母の歌橋という女性だけでした。
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人前に出るのを嫌ったのは、脳性まひを患っていたから、もしくは痘瘡(天然痘)の痕が顔に残ってしまったからといわれています。
確かに、これだけ病気が続けばコンプレックスで人間嫌いになるのも無理はありません。おそらく陰口を叩く者もいたでしょう。
しかし、いつまでも引きこもってはいられません。
家定17歳のときに祖父である徳川家斉が亡くなると、正式に父の世継ぎになりました。
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親子の縁が薄い時代・身分であっても、家慶は我が子の出来が将軍職には向かないことはわかっており、一時は徳川慶喜(後の十五代将軍)を十三代に就けようと思っていたようです。
しかし「直系の長子相続」は譲れないと考えていた老中たちに反対され、やはり家定が家慶の跡を継ぐことになりました。
外国人にアレコレ言われ、臣下たちからも急かされて
それから十二年後の嘉永六年(1853年)、黒船がやってきた直後に、家慶は亡くなりました。
代わっていよいよ家定が将軍の座に就きます。
現代の学生もこの辺から段々ややこしくなってきて悲鳴を上げるところですが、当時生きていた家定も大変どころではありませんでした。
上記の通り元々頑健とはいえない体質だったのに、外国人にアレコレ言われるわ、家臣たちは「上様いかがなさいますか」と急かしてくるわで、気の休まるときなどほとんどなかったでしょう。
そうしたストレスのため、家定の体調は悪化の一途。当然世継ぎを作るどころの話ではありません。
大河ドラマ『篤姫』でも取り上げられていましたが、家定は三回正室を迎えています。
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最初の二人は早くに亡くなってしまい、最後に結婚した篤姫は将軍職への重責にあえぐ中での結婚だったので、直に顔を合わせたのもほんのわずかな回数だったと思われます。
篤姫に関しては、「次こそ健康な正室がいい」ということもあって武家の中から選ばれた奥さんでした。
残念ながら、それは結局実を結ばなかったのですが……。
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