吉田東洋

吉田東洋/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末土佐を牽引した吉田東洋~容堂に重用されながらなぜ半平太に暗殺されたのか

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東洋と「新おこぜ組」の改革

埋もれた逸材である吉田東洋のことを、福井藩の松平春嶽が登用しようとしたとも伝えられます。

しかし、容堂が止めます。

自身の一存では東洋復活を決められないため、容堂は山内豊資に許可を求めるのです。処分の原因となった松下嘉兵衛も寛大な処置を求めていました。

そこで入念な手回しを経て、やっと東洋復活の準備は整えられました。

容堂は豊範に家督を譲ると、自らは隠退。

東洋はまたも藩政改革に取り組むことになりました。

とはいえ、豊範はまだ若く、その父である豊資はもはや過去の人で、依然として実質的な権限は容堂にあります。

政局の転換により【一橋派】が返り咲くと、もはや憚る必要もありません。

東洋の藩政改革に伴い、「新おこぜ組」の才知溢れる青年たちが登用されました。

後藤象二郎板垣退助、福岡孝弟たちは期待を背負って表舞台に立ち、以下のような改革を推し進めてゆきました。

・財政再建

・海防強化

・人材登用

・公武合体の推進

・西洋技術を学ぶ

・農水産物生産奨励

・軍政改革

・「東洋文武館」設立

・法律書『海南政典』制定

東洋の政策は来たる明治を先取る先見の明に満ちていました。

しかし、そうは上手くいきません。土佐藩を巻き込んだ【安政の大獄】の余波が、思わぬところに及んでいたのです。

 


テロに傾倒してゆく半平太

【安政の大獄】の後の安政7年(1860年)、井伊直弼が【桜田門外の変】に斃れました。

この事件は「テロリズムで世の中を変えることができる」という勘違いを“志士”たちに与えてしまいます。

土佐藩出身の武市半平太もそうした志士の一人。

武市瑞山(武市半平太)/wikipediaより引用

水戸藩士、薩摩藩士、そして長州藩の久坂玄瑞から影響を受けた武市は、土佐藩でも尊王攘夷を推し進めるべきだと決意を固め、【土佐勤王党】を結成します。

武市は薩摩や長州と比べ、土佐は遅れていると焦りを募らせます。

そんな武市にしてみれば「東洋は夷狄の穢らわしい技術を学ぶ奸臣」に映る。

いくら東洋に尊王攘夷を説いても「書生論だ」と相手にされないゆえ、余計に怒りが湧いてくる。

【土佐勤王党】は郷士以下が主体であり、上士に反感も抱いています。

東洋は聡明にして剛毅不屈。優れた人物である反面、激しやすく敵を作りやすい性格です。

保守派も東洋を嫌っていることを察知した武市は、敵の敵は味方とばかりに彼らに手を回し、東洋の政策妨害に奔走しました。

武市半平太は、最後の手段を学んでいました。尊王攘夷の志士たちは、テロルの刃で世を変える術を実践している。

しびれを切らした武市はついに【土佐勤王党】の配下に声をかけます。

吉田東洋を暗殺せよ――。

 


土佐勤王党の凶刃に斃れる

文久2年(1862年)夜、吉田東洋は藩主・豊資に『日本外史』を講義し、帰りに酒をいただき、雨の中、家路へ向かっていました。

そこへ襲いかかったのが半平太の指令を受けた那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助。

彼らは東洋を討ち取り、その首を落とします。

享年47。

東洋の首は斬奸状と共に晒されたのでした。

武市の読み通り、「新おこぜ組」ら改革派は崩壊し、吉田家は断絶となりました。

武市の配下である岡田以蔵は、吉田東洋の暗殺を調べていた下横目(捜査官)を絞殺。

この東洋の死に酔ったかのように、【土佐勤王党】は血生臭い暗殺を繰り返してゆきます。

文久3年(1862年)、容堂は東洋暗殺を忘れてはいません。「先生」と呼び、脱いだ羽織を着せたこともあるほど、彼を信頼していたのです。

容赦ない【土佐勤王党】を止めるべく武市半平太が土佐に帰国。

この年【八月十八日の政変】そして【禁門の変】が起こると容堂は勢いを増し、徹底して追及するようになります。

結果、慶応元年閏(1865年)に武市半平太は切腹へ追い込まれ、その配下も斬首となり、東洋を手にかけた【土佐勤王党】は壊滅したのです。

 

あれはとても当節を生き延びる男ではない

土佐藩はその後、薩長とは異なる道を模索します。

幕府や会津藩への復讐を果たそうと武力討伐へ突き進む中、山内容堂の意を受けた後藤象二郎は【大政奉還】を進めようとします。

『大政奉還図』邨田丹陵 筆/wikipediaより引用

【五箇条の御誓文】の作成には福岡孝弟が関わりました。

しかし、長州藩と薩摩藩の勢いは止めることができず、結局は武力倒幕に向かい、その戦線には板垣退助も加わっていたのでした。

三菱財閥を為した岩崎弥太郎

自由民権運動の旗手となった板垣退助。

政治家としても実業家としても名を残した後藤象二郎。

吉田東洋の少林塾からは、錚々たる面々が巣立ち、明治においても足跡を残しています。

晩年、山内容堂は佐々木高行に尋ねられました。

「旧知の方で、今の時勢に堪えられる方はおられますか?」

島津斉彬か、藤田東湖か」

「吉田東洋は?」

「あれはとても、当節を生き延びる男ではない……」

それは東洋の優れた資質と、激しい気質を知る主君ならではの言葉でした。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
平尾道雄『吉田東洋』(→amazon
泉秀樹『幕末維新人名事典』(→amazon
松岡司『武市半平太伝』(→amazon

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