江戸時代

紫衣事件はナゼ起きた?そもそも紫衣とは?後水尾天皇が譲位したその後は?

1615年。
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もう誰にも文句なんて言わせね~よ~!

と、ばかりに大きな法律を立て続けに出しています。

その代表が
武家諸法度
禁中並公家諸法度
でしょう。

前者は全国の大名に向けて規範を定めたものであり、後者が皇族貴族向け。

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詳しい内容はそれぞれのリンク先をご覧いただきたくとして、ここでは概要だけマトメますと、要は

「幕府に逆らうんじゃないよ」

ってなコトを全国の大名や皇族貴族に対して通告したのであります。

そしてこの法律から程なくして、ある事件が起きます。

寛永六年(1629年)の紫衣事件――。

今回は、その概要を見て参りましょう。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

選ばれし者のみ着用できる紫衣が……

まず気になるのは紫衣事件の「紫衣」でしょう。

長い修業を経て徳を身につけた僧侶だけが朝廷から授けられる、特別な法衣のことです。

当然、その対象は若い人よりも、年配の人が多くなります。

が、この頃には紫衣の基準があいまいになっており、まだ修行の浅い、若い僧侶に紫衣が与えられることが増えておりました。

戦国時代を経て僧侶の世界も秩序が乱れていたんですね。

これを厳密なものにすべく、幕府は元和元年(1615年)以降に紫衣の勅許を受けた者に対し、取り消すなどの処置を寛永四年(1627年)7月に実施します。

【禁中並公家諸法度】と【諸宗本山本寺諸法度】などで、幕府は朝廷に対し

「紫衣の勅許をそうホイホイ出されては困ります。これからは幕府にご相談ください」(意訳)

としていたのですが、しかし朝廷はそんなの屁の河童であり続けました。

 

四名の僧侶を流罪に決めた

もちろん幕府も黙っていられません。

老中・土井利勝、京都所司代・板倉重宗、そして幕府のブレーンの一人である僧侶・金地院崇伝らが連名で、朝廷へ抗議の書面を出します。

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当然、朝廷や勅許を受けた僧侶たちは強く抗議しました。

おそらくは『野蛮な武士が、高貴な我々に何を偉そうなことを!』というような反感もあったでしょうね。

ただでさえ、禁中並公家諸法度で頭を抑えられ始めて日が浅いのですから。

幕府も、いつまでもゴネているわけにもいかないので、妥協案を出しました。

が、僧侶側の一部はさらに抗議し、江戸までやってきて直談判をします。

幕府としてはせっかく妥協したのに、さらにゴネられてはさすがに黙っていられません。江戸まで来た四名の僧侶を流罪に決めました。

ここまでの一連の流れが一般的に紫衣事件とされ、一般的には以下のような意義があったとされます(ときの将軍は三代・徳川家光)。

・朝廷と幕府の力関係を明らかにした

・そして幕府は独裁色を強めた(朝廷のナァナァな姿勢にメスを入れた)

ちなみにこの時、幕府側の僧侶の間でも意見が割れていました。

金地院崇伝は厳罰を、南光坊天海は軽い処罰を主張していたとか。天海は「光秀じゃないか?」といわれていることでも有名な僧侶ですね。

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