鎌倉&室町幕府に比べると、江戸幕府の運営ってかなり安定していましたよね。
なぜか?
と考えると【組織が強固】になったのが一番の要因かと。
官僚的と言えばそうですが、時代に応じて新たな役職も設置され、それが比較的機能していったからではないでしょうか。
寛永十年(1633年)の3月23日は、三代将軍・徳川家光が、松平信綱ら側近六名に「小さなことはお前たちで相談して決めていいよ」と命じた日です。
これだけだと「何のこっちゃ?」という感じですが、この六人が後に「若年寄(わかどしより)」という役職の元になりました。
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若年寄は「旗本&御家人」の管理を行う
若年寄とは一体なんなのか?
現代では老中や大老ほどの知名度はありませんが、幕府にとっては欠かせない存在でした。
というのも若年寄は、旗本や御家人など、幕府に直接仕える武士を統括する役目だったからです。
学校に例えるとすれば、
・将軍が校長先生
・老中が教職数十年のベテラン
・若年寄が学年主任の先生
・旗本や御家人が生徒
って感じですかね。
具体的に若年寄は、以下のような統括役を果たしていました。
・書院番(しょいんばん)
将軍の親衛隊です。
三交代制で警備を務め、将軍外出の際には警備も行いました。
江戸時代中頃までは、書院番の中から駿府城代役が出ています。
・小姓組(こしょうくみ)
仕事内容はおおむね書院番と同じですが、駿府城代はやりません。
ぶっちゃけ、後世から見ると何でこの二つを分けたのかがよくわかりません(´・ω・`)
・目付(めつけ)
幕閣・大名から旗本・御家人まで、ほぼ全ての武士の職務態度を監視する役職です。
老中であっても、施策を実行するときには目付の同意が必要でした。
立場の上下と権限が一致しない、って結構ややこしいですよね。
・使番(つかいばん)
戦国時代の伝令や使者から派生した役職です。
島原の乱以降は戦での仕事がなくなってしまったため、遠国奉行(天領=幕府直轄地の代官)などの監視役となりました。
こんな感じで、若年寄は「将軍のお膝元から遠国までの連絡・監視役を取り仕切る役職」だったといえます。
若年寄からさらに出世して老中になることもありましたが、地方の情勢を知ることができた若年寄としての経験が生きる場面も多かったでしょうね。
ついでに、老中や大老のこともざっくりと確認しておきましょう。
【老中】大目付や駿府城代、朝廷・公家の統括など
「宿老」「年寄」ともいいます。
もちろん、おじいちゃんばかりがやっていたわけではありません。
江戸城下の市政や治安維持を行う大目付・町奉行から、遠国奉行・駿府城代といった遠方の役人、そして朝廷・公家・寺社・大名を統括するのが仕事でした。
家光の治世後半からは、ひと月ごとに実務担当者を交代するようになっており、これを「月番の老中」といいました。
幕末も押し迫った慶応三年(1867年)に月番を廃止し、現在の総理大臣と各大臣のような体制が作られたのですが……遅すぎ。
「老中首座」と呼ばれる代表格が置かれています。幕末でよく出てきますね。
他に「取次の老中」といって、各大名家と幕府とのお付き合いをスムーズにするためのアドバイスを行う人もいました。
創作物ではそこまで立場を明らかにしていないことが多いので、「老中=幕府でなんでもできるくらいエライ人」というイメージがついている気がします。
老中は基本的に午前10時から午後2時くらいまで江戸城で仕事をし、帰宅という生活をしていました。
この時間であれば季節を通して明るいですから、そういった面でも支障がないと思われたのかもしれませんね。
しかし、トラブルなどがあると、朝の四時や五時あたりから自宅に外様大名の使者や留守居役がやってくるので、決して楽な仕事ではありませんでした。
むしろ、家に帰った後いきなり仕事が舞い込んでくることも珍しくない……と考えると、現代の管理職と同じかそれ以上の可能性も……。
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