藤原泰衡イメージイラスト

源平・鎌倉・室町

奥州の藤原泰衡は頼朝に騙された愚将か?義経を討ち最後は家臣に裏切られ

2024/09/02

文治五年(1189年)9月3日、藤原泰衡が郎従に討たれ、奥州藤原氏は滅亡となりました。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場していましたね。

兄の藤原国衡相手には強気で凄む。

一方で鎌倉からの使者・北条義時が相手になると、当主とは思えない優柔不断さで、まるで縋りつくかのように助言を求める。

そして源義経攻めを決断――と、どうにも自主性のないキャラで「あんな調子じゃ鎌倉に騙されて当然だわ!愚将かよ」と思われるかもしれません。

では、実際のところはどうだったのか?

藤原泰衡イメージイラスト

本稿では、藤原泰衡の生涯を振り返ってみましょう。

【奥州藤原氏】
初代:藤原清衡
二代:藤原基衡
三代:藤原秀衡
四代:藤原泰衡

 


奥州藤原氏は故郷だった

そもそも義経が奥州へ逃げたのは、頼朝と合流する以前の青年期、奥州藤原氏を頼って平泉に住んでいたことがあったから。

義経は当主・藤原秀衡(ひでひら)の支援を受け、家臣や馬などをもらったりしました。

父親に会ったことがない義経としては、秀衡が父親代わりでもあったのでしょう。

敵だらけになってしまった時には、最後の砦にも思えたでしょう。

藤原秀衡の肖像画

藤原秀衡/wikipediaより引用

秀衡は、頼朝から「京都に金(きん)や馬を送るときは、オレが仲介してやろう」という不躾な申し出を聞いており、心情的に鎌倉へは良い印象を持っておりません。

それまでだって、頼朝に仲介してもらわなくても直接京都へ運んでいたのです。

仲介を頼むということは、当然、手数料が発生。

そして、それは奥州藤原氏が源氏に臣従することを意味するも同然でした。

当時の奥州は半ば独立国ですから、立場的にも面白いワケがありません。

しかし秀衡はいったん譲歩し、鎌倉へ馬と金を送りました。

むろん臣従はしたくありません。

そこへ「息子」だった義経が頼朝から追われて亡命してきたので、いよいよ「その時」だという可能性を考え、義経を匿いました。

義経を旗頭とすれば、武家源氏の血筋として十分。

それだけでなく平家を滅亡に追い込んだ義経は天才的な軍略家であり、兵力次第では鎌倉に勝てる可能性もあったかもしれません。

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しかし、栄華を極めた秀衡も寄る年波と病には勝てませんでした。

義経が奥州にたどり着いた文治3年(1187年)のうちに亡くなってしまうのです。

 


アイツは所詮よそ者じゃないか!

跡を継いだのが、次男の藤原泰衡(やすひら)でした。

奥州藤原氏には、長男の国衡(くにひら)もいましたが、側室の生まれだったため、正室を母に持つ次男・泰衡が優先されたのです。

ただし国衡は、秀衡の妻で泰衡の母(鎌倉殿の13人では“とく”)を妻とし、泰衡の義父というポジションについてます。

泰衡と国衡の兄弟仲がひどく悪かったため、秀衡が苦心の末、無理やり親子にしたんですね。

しかし、そんな書類上のことが大して意味ないことは明白であり……泰衡は、鎌倉からのプレッシャーに対し、徐々に耐え切れなくなっていきます。

そしてある日、こう言い出しました。

「父上は義経を助けろって言ってたけど、所詮よそ者じゃないか! アイツのせいでうちが滅びるぐらいなら、先に討ち取って頼朝の機嫌を取ったほうが良い!」

泰衡の決意に対し、藤原国衡と三男・藤原忠衡(ただひら)は唖然。

特に忠衡は猛反対します。

「いや、父上の遺言はきちんと守りましょう! うちを信用して頼ってきたような人を討ち取るとか正気か! この親不孝者!!」

しかし、元々仲の悪い兄弟だったので話し合いでは到底解決できません。

泰衡は反対を押し切って義経を【衣川の戦い】で自害させ、

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その足で「もう義経はいないし、お前の居場所もねーから!」と忠衡まで討ち取ってしまうのでした。

頼朝に対する言い訳とか、過剰なまでにおもねった態度とも言えますね。

あるいは家中の統制かもしれませんが、いずれにせよ滅茶苦茶……。

そしてその結末は、泰衡の思惑とはまるで違う方向へ進んでいきます。

 

まわる、まわるよ、因果はまわる

他人の命を巻き込んだ泰衡の盛大な媚び媚び、頼朝には全く通用しませんでした。

「差し出せとは言ったけど殺して良いなんて言っとらんわ! お前ら全員責任取れ!!」

ちょっと前には「義経を討て!」と言っていたくせにひどい話です。しかし既にこのころ頼朝の目的は義経より奥州そのものに移っていたのですから、まぁ、そうなりましょう。

金や馬の産地であり、兵力も充分な奥州。

そこに藤原氏がいる限り、鎌倉に幕府を構えても背後を脅かされ続けます。

泰衡はこの態度にビックリ仰天。

媚びたつもりが逆効果になったというのだから、そりゃそうですよね。

攻めてきた鎌倉の大軍を福島県伊達地方(この戦いの恩賞でこの土地をもらったのが、あの伊達政宗のご先祖です)で、お兄さんの国衡が迎え撃ちますが、多勢に無勢。

国衡は父の遺言を守り、弟を裏切らないまま、義理堅く討ち死しました。

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この立派なお兄ちゃんを見て、さすがの泰衡も奮い立つか――と思ったら世界遺産の平泉を放棄してしまいます。

窮地に陥り、ろくな兵も残っていなかったので、仕方ないかもしれません。

そして逃亡先から必死すぎる嘆願の手紙を送ります。

「貴方が討てって言ってたから従ったのに、なんで討たれるんですか? おかしいじゃないですか。でもこうなった以上は仕方ないから従います、流罪になっても構いませんのでどうか命だけは! 命だけはああああああ!!」

※超訳しすぎかと思われるかもしれませんが、本当にこれくらいの勢いで懇願している

しかし、頼朝は甘くありません。

「ざけんな。そんなの手紙じゃなく、まずはツラを出せや」

こりゃだめだとばかりに、泰衡は更に北へ北へ。

最後は渡島(北海道)を目指していたようですが、最終的に

「こいつの首持ってけば頼朝に取り立ててもらえるんじゃね?」

と考えた部下によって殺されてしまうのでした。

 


結局は頼朝に処分され

自分と同じ考え方の人間に殺されるなんて、罰が当たったとしか言いようがありません。

泰衡を殺した河田次郎という人も、結局は頼朝に

「先祖代々仕えてきて恩があったくせに、裏切って助けてもらえるとか思ってんの?バカなの?」

という理由で斬罪に処されてしまいます。

一連の戦いで、泰衡が火をつけたおかげで平泉の中心施設は焼け、源氏平家と並ぶ奥州藤原氏はあっけなく滅亡しました。

以後、伊達政宗の時代まで、奥州藤原氏ほどの栄華を誇る人物は出てきておりません。

もし泰衡が遺言通り義経を旗頭にして、頼朝と正面衝突していたら鎌倉幕府はどうなっていたか?

考えると楽しい限りですが、実際は頼朝が勝っちゃうんでしょうね。

ただ、義経が生きていたらわからないかも……。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも「三浦義村を味方につけた上で、本軍は船で静かに鎌倉に乗りつけ、火攻めで一斉に襲いかかる」という計画を展開していましたね。

奥州藤原氏の初代・藤原清衡から始まった/wikipediaより引用

なお、奥州合戦で活躍したのが藤原朝宗。

源頼朝から陸奥国伊達郡を貰って伊達朝宗と名乗ります。

そうです。あの伊達政宗がご先祖様で、伊達氏の初代になります!

歴史って繋がってますね。


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【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
奥州藤原氏/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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