山川浩

山川浩/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

敵に囲まれた城を獅子舞で突破!会津藩士・山川浩の戦術が無双だ!

明治10年(1877年)、西南戦争勃発――。

時の政府は苦しい決断のときを迎えました。

首謀者である西郷隆盛を敬愛していた大久保利通西郷従道山県有朋らを中心とした政府は、これから待ち受ける惨劇を思い、天を仰ぐほかない。

そんな心持ちであったことでしょう。

しかし、中にはこの報を受け、目を光らせた者もいます。

【今こそ武士の心を見せ付け、名誉を取り戻そう!】

誰あろう、元会津藩士たち。

その中でも【山川浩】の戦いっぷりは激しく、そして華々しいものでした。

十中八九、死ぬような命令を出されながらミラクルで生き抜き、とびきりの戦果を挙げる――。

明治31年(1898年)2月4日は山川の命日でもあり、その功績を見てみましょう。

 


敵13人を討ち取った名もなき元藩士もいた

西南戦争の戦地――そこには東北訛りで高揚しながら歌うものがおりました。

ちょっと山川浩から離れますが、少しだけお付き合いください。

妻や子を振り棄てて

古郷(ふるさと)の春を跡になし

(うらみ)かさなる薩摩潟

心尽くしの甲斐ありて巡査の拝命受けしより

酬う刃の切れ味を

胸の砥石で研ぎ澄まし

はむかう奴原切り捨てて

君と我身の敵を除き

光り輝く日の丸を

天が下にて振照らし

お医者様ではないけれども

国の病が直し度い

戦地でも

「戊辰の復讐! 戊辰の復讐!」

と絶叫しながら、奮闘する兵士の目撃談があります。

実に【一人で13人を斬り捨てた】という名もなき元会津藩士もいたとか。

なぜ彼らはそこまで魂を震わせたのか。

因縁は戊辰戦争にまで遡ります。

寛大な戦後処理に感謝し、西郷側につく者もいた庄内藩士と違い、会津は過酷な戦いや戦後処理で虐げられ、無念と屈辱を胸に秘めて生きて来たのです。

詳細は以下の記事に譲るとして、

会津戦争の遺体埋葬論争
会津戦争『遺体埋葬論争』に終止符を~亡骸埋葬は本当に禁じられた?

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会津戦争(会津と長州)
なぜ会津は長州を憎む?会津戦争に敗れた若松城と藩士達が見た地獄

続きを見る

本題を進めますと、西南戦争に参戦した警視隊のうち、福島県出身者は1,177名。

実に全体の10パーセントです。

戦死者は143名で、全体の24パーセントにのぼりました。

さほどに前のめりで戦っていた中でも飛び抜けて激戦をこなしたのが山川浩だったのです。

 


山川浩――幕末会津の知恵山川

会津藩最年少の家老であった山川浩。

教養高い一家であり、母・唐衣も和歌を嗜んでいた山川は、出征前にこう詠みました。

薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の 利きか鈍きか

【意訳】薩摩人、見てみっせ、東国=会津の武士がさげている太刀が鋭いか鈍いか

生真面目な印象が強い会津藩士の中でも、山川はちょっと毛色が違います。

10代半ばで父を失い、家老として家督を相続。

慶応2年(1866年)には幕府の使者として渡欧しロシアに向かうわけですが、この旅でもいろいろありました。

エジプトでは東洋人だからと舐めた態度を取ったポーターをボコボコに殴り倒し、パリでは幕府相手に舐め腐った態度を取った薩摩藩士と喧嘩寸前になり、自分をパシリ扱いする幕臣にブチギレる……そんな存在です。

会津戦争でも、はるかに年下の白虎隊士にイライラしながら切腹しろと迫ったり、弟・健次郎に切腹したらどうかと真顔で迫ったり……なんでそんなに切腹を迫るのか、ちょっとわからないくらいそういうことをやらかします。

 


光る毒舌! だからこそ魅力的

残された言動も、かなりオラついています。

◆攘夷派ってバーッカじゃねえの?

【意訳】当時の京都では、脱藩浪士が外国人をケダモノ扱いして、やたらとうるさく鎖国攘夷だと叫んでいたけど、そんなものには一つとして確固たる定見なんてない。酷い奴は、元寇の時の神風を期待するオカルトレベルだった。

◆慶喜、コラテメエ!!

【意訳】鳥羽伏見のあと、大坂城代になってマジ困ったわー!(徳川慶喜トンズラこいてんじゃねえぞコラ、という嫌味)


◆斗南何もねえ!!(斗南藩の困窮を赤裸々に詠む)

みちのくの 斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答えよ

【意訳】東北地方の斗南がどんな土地かと人に聞かれたら、原始時代まんまの国だと答えればいいべさ

やることなすこと大胆で、ともかく口が悪い。

若く血気盛んなだけでなく、オラついていた部分があるのです。

こういうことを『京都守護職始末』で書き残し、和歌も多数残しているため、彼の性格はバッチリ伝わってくるわけです。

幕末の会津藩士ってば口が悪いなあ〜と思わないでください。

あくまで山川浩の個性です!!

残された写真も三白眼で睨んでオラついているものがあり、彼のそういう性格が伝わって来ます。

ちなみに当時の異名は「知恵山川」。

オラついているというより、賢いことで有名であったのです。

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