明治時代の衣食住

明治・大正・昭和

明治時代の「衣食住」に注目! 江戸時代から何が変わり何が流行った?

明治時代は、庶民にとっても数多くの大きな変化を感じた時代でした。

受験勉強や政治の流れとは少々離れますが、当時の一般人の生活を知るのもまた一興。

大河ドラマ『西郷どん』や『青天を衝け』など、この時代を描いた創作物をより深く味わうこともできると思われます。

本記事では明治時代の衣食住について見ていきましょう。

 

「衣」について

衣服の変化については、なんといっても洋服の普及です。

まずは皇室や政府の正装が洋服とされ、同時に軍人や駅員・郵便局員など、公的機関の制服も同じように洋装と定められました。

町のあちこちで見かけるこれらの職業の人々が洋服を身につけている姿は、やがて一般庶民にも受け入れられ、憧れとなっていきます。

明治十一年(1878年)には

束帯などの和装は祭服とし、洋装を正装とする」

という法律が作られました。

束帯は平安時代に生まれた皇族及び公家の正装で、現在でも天皇陛下が祭祀の際に着用されています。

また、天皇や皇太子しか身に着けられない「禁色(きんじき)」というものもあります。

女性の場合もやはり、高貴な人々の正装が洋服になりました。

明治十四年(1881年)に「高官が公的な場に夫人を伴う際は洋装とする」というお触れが出されています。

鹿鳴館外交はその後の話です。

それまで高貴な女性は家から外出しないものでしたが、西洋のパーティーでは夫人同伴がセオリーだったため、日本もそれに倣うことになったのでした。

それ以外の場合では、看護婦に洋服が用いられていましたが、他の女性達にはなかなか広まりませんでした。

女性の洋装が遅れた理由は、主に二つあります。

 

お値段や髪型の問題が依然として残り、導入が遅れる

一つは、価格や希少性の面です。

明治初期は、たとえ華族でも西洋のドレスや服を手に入れるのが難しいほどでした。

入手・着用までにとても時間がかかるので、有名な【鹿鳴館外交】(「洋風の建物で西洋のダンスをすれば文明国として認められるに違いない」という外交方針)の頃に日本で使われていたドレスは、西洋では既に流行遅れになっていたそうです。

鹿鳴館外交の方針ともども、これは西洋諸国からは冷たい目もしくは失笑されていたとか。今と違って、すぐに情報が伝わるわけじゃないですからね。

鹿鳴館を描いた浮世絵/wikipediaより引用

もう一つは、髪型の問題です。

男性の場合は髷(まげ)を切って整えれば【散切り頭】にできますが、「女性の髪をばっさり切ってショートカットにする」という発想はこの時代には存在しません。

女性が髪を短く切る(剃る)=出家になってしまいます。

ヨーロッパでも似たようなもので、女性のショートヘアが流行ったのは第一次世界大戦後のことでした。

そのため、女性の場合は洋服の廉価化と共に、洋装に似合う髪型の改良が必要だったのです。

江戸時代までと同じくいろいろなスタイルが考案され、和装でも洋装でも合わせやすい髪型もいくつかありました。

ちょっと面白いところでは、日露戦争の頃に「二百三高地(髷)」というヘアスタイルが登場しています。

例の高地を思わせるような、こんもりと盛り上げた髪型です。

日露戦争
日露戦争になぜ勝てた?仁川沖海戦に始まりポーツマス条約をマトメるまで

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こうして少しずつ洋装は進んでいきましたが、制服で洋服を着る人々もプライベートでは和服を愛用していたり、現在ほどの普及ではありませんでした。

戦時中を描いたドラマや映画だったり、サザエさんなどの昭和を舞台としたマンガでも、和服の登場頻度は高いですよね。

その一方で、「袴にブーツの女学生」や「和服の上にインバネスコート」など、この時代ならではの和洋折衷スタイルも生まれています。

創作物でこういった服装を出せば、すぐに「明治か大正あたりの話だろうな」というイメージができるくらい、お馴染みですね。

実は、他のアジア諸国でもこの手の折衷スタイルはありました。

中国では「漢服に西洋の帽子」、インドでは「洋装にターバン」などがあったようです。

西洋化せざるを得なかった当時のアジア人の意地というかプライドというか、そんなものもうっすら感じられるような気がします。

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