明治天皇/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

1912年7月30日明治天皇の崩御 あの夏一番暑いとき時代が移り変わった

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践祚の儀は亡くなった当日に行わなければならず

こうして方々で違った意味の緊張が高まる中、28日の明治天皇にはけいれんがみられ、カンフル剤や生理食塩水などが注射されています。

同じく「天子の体を傷つけていいのか」という躊躇があったようですが、やはり昭憲皇太后の許可で行われました。

そして29日にはいよいよという病態になり、午後10時半頃に皇族が病室に集められています。明治天皇が何か低くつぶやき、昭憲皇太后が返事をしたものの、その後は何も言わずに亡くなったとか。

公的には、明治天皇の崩御日時は”7月30日午前0時43分”と発表されました。

これにも大きく分けて二つの理由があります。

一つは、明治天皇が息を吹き返す可能性を考えてのことです。

明治天皇存命中に、新帝践祚の儀を準備する訳にはいきません。ですから、しばらく様子を見る必要がありました。

明治天皇
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もう一つは、践祚の儀の準備の関係です。

空位の時間が生まれることを防ぐため、践祚の儀は先帝が亡くなった当日に行わなければなりませんでした。

しかし、明治天皇の崩御が午後10時半頃では、日が変わるまでに1時間+αしかありません。

そのため、崩御の時間のほうをずらし、空白の時間ができるだけ短くなるように発表したのだそうです。

 

幕末・維新を経て、そして時代は大正へ

遺体は7月31日に納棺され、8月13日に殯宮(ひんきゅう・もがりのみや)に移されて皇族や諸役人の拝礼が行われました。

そして9月13日午後8時に青山練兵場(現在の明治神宮外苑)へ向けて出棺。陸軍・海軍の弔砲の後、東京中の寺院から鐘が鳴らされたといいます。

その後、一般の葬儀にあたる「大喪の儀」が執り行われました。

大喪の儀の後、棺は遺言に従って京都南部の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬されています。

明治天皇は近畿圏に葬られた最後の天皇です。

昭憲皇太后は明治天皇が案じた「めちゃめちゃ」になることはなく、気丈に看病や新帝即位、大喪の儀へのお見送りをこなしました。

大正天皇も健康や素質を危ぶまれていましたが、明治天皇の晩年には毎週一度親子で語らう日があったため、日常の心得やいざというときの覚悟を決めていたと思われます。

残念ながら、健康のほうが追いつきませんでしたが……。

こうして明治時代が終わり、日本は大正時代へと移り変わっていきました。

なお、明治天皇の生涯につきましては以下の記事にまとめさせていただきましたので、よろしければ併せてご覧ください。

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長月 七紀・記

【参考】
保阪正康『崩御と即位―天皇の家族史 (新潮文庫)』(→amazon
米窪明美『明治宮殿のさんざめき (文春文庫)』(→amazon
明治天皇/Wikipedia

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