伊藤沙莉さんが主役を演じて話題となり、ついに最終回を迎えた2024年前期の朝ドラ『虎に翼』。
彼女が演じる寅子のモデルは、日本初女性弁護士の一人であり、女性判事であり、家庭裁判所長を務めた三淵嘉子(みぶちよしこ)です。
昭和15年(1940年)という戦前の時期に司法試験に合格した彼女。
女性であるがゆえの困難に何度も直面しながら少年少女たちを助け、さらには後に続く女性法曹のためその道を走り続けた――なんて言うと、いかにも弁の立つ手厳しいタイプの人物を思い浮かべてしまうかもしれませんが、むしろその逆でした。
会う人が誰でも好きになってしまうような、朗らかな女性だったとされます。
朝ドラ『虎に翼』により、日本中から注目されるようになった三淵嘉子とは一体どんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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名を為さんと、法の道へ
大正3年(1914年)11月13日、シンガポールにて、台湾銀行に勤める武藤貞雄とその妻・ノブに長女が生まれました。
シンガポールの漢字表記である「新嘉坡」から「嘉子」と名付けられたその少女。
九星学における強運の星である「五黄の寅」に生まれたと、本人も周りに語っていたそうです。
夫妻にとっては初の子であり、その後、三人の弟に恵まれました。
きょうだいの中で最も活発で、頭が良いのが嘉子でした。
両親共に「この子が男であればよかったのに」と語ることはしばしばあったそうで、嘉子は東京府青山師範学校附属小学校を卒業すると、東京女子高等師範学校附属高等女学校を出ます。
澄んだ声で歌い、絵も上手に描ける。
そんな学校でも人気者の嘉子に対し、父は「女性でも仕事をするように」と語っていました。
貞雄の先祖は丸亀藩・御側医の家柄で、かつては貞雄も医者になることを期待されたことがあります。
父の願いを叶えるため、嘉子は女医を目指したいと思いました。
しかし、血を見るのがどうしても苦手……。
ならば弁護士はどうか。
そう考えた嘉子は昭和7年(1932年)、東京で唯一、女子でも法律を学ぶことができる明治大学専門部女子部法科に、四期生として進学します。
しかし当時の女子教育は良妻賢母を目指すためのもの。
女学校の教師は驚き「嫁の貰い手がなくなる」として引き止めようとし、法事のため丸亀に出かけて留守にしていた母も、娘の決定を聞くと泣き出しました。
周囲も、嘉子の決断を奇妙なものとみなします。
「この家には法律を学ぶ女がいるんだと」と話しつつ、家の前を男子学生が通り過ぎてゆくこともあったとか。
明治大学法学部を卒業 日本初の弁護士となる
明治大学専門部女子部には、下は十代から、上は四十代まで、百人ほどの学生がいました。
入学者は大学側の想定よりも少ない上に、その後も結婚等でどんどん生徒が減ってゆきます。
昭和10年(1935年)に女子部を終えた嘉子は、明治大学法学部に入学。
武藤という姓から「ムッシュ」と呼ばれる人気者で、男女あわせても成績は首位でした。
大学では女子ばかりが固まって行動していたものの、いざ試験となると男子学生がカンニングをせっついてくるほど、彼女の優秀さは際立っていたとか。
そして昭和13年(1938年)、ついに嘉子は首席で卒業を果たし、高等試験司法科試験を受験します。
このとき嘉子は、試験の待合室で疑念を抱きました。
高等試験合格者には、本来ならば
・弁護士
・検察
・警察
という三つの道が開かれているはずです。
ところが弁護士以外は「日本帝国男児に限る」という規定がありました。
女は結婚して家庭に入るから務まらない――そんな当時の慣習に沿うもので、法的根拠などありません。
同じ試験に合格しても、女子は道が閉ざされてしまう。
その理不尽さに怒りが猛然とこみあげてきます。嘉子が男女の不平等を強く感じた瞬間でした。
試験のあと、嘉子は家に戻ると泣き崩れ、不合格だと嘆いていたそうです。
しかし発表されると、そこには以下の三名の名も含まれていました。
中田正子
久米愛
武藤嘉子
日本初の女性弁護士となる三名でした。
中田は前年に筆記試験には合格していながら口述試験で落とされていました。
後年、試験官が「女だてらに生意気だから落とした」と語っていたと伝わっています。
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