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【北海道の食の歴史】
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白米なんて夢のまた夢
日本人といえば、主食は何といっても米です。
松前藩が実質的に石高ゼロという分類であったのは、米が採取できないという事情があり、アイヌ等との交易で潤っておりました。
品種改良が重ねられ、北海道でも稲作が広まり始まったのは明治20年代のこと。それまでは、実験的に細々と作るしかありませんでした。
開拓者や屯田兵にとって、まるで日本人のアイデンティティを失うような、辛いことであったことでしょう。
稲作以前の主食は、ジャガイモ(馬鈴薯)、トウモロコシ、ムギ、ヒエ、アワ等。
精一杯の贅沢は、麦や蕎麦であり、白米なんて、夢のまた夢。
日常的な炭水化物は、芋がゆ、トウモロコシの粥です。
明治末期でも、農家が一年に購入できる米は一斗(およそ15キロ)だったと言いますから大変なことです。開拓者や屯田兵は、故郷の白米を夢に見ながら生きていたことでしょう。
屯田兵 知られざる北海道の始まり――北の大地は士族や伊達家が耕した!?
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寒冷地稲作を初めて成功させたのは?
もともと稲作は、温暖な気候が向いています。
それを北の大地に根付かせるのは大変なこと。
比較的温暖な道南地域では、割と早い段階から行われましたが、北海道の大部分を占める極寒の地での稲作は一体いつから始まったのか?
稲作の普及が急務――。そう考えた明治政府は、明治6年、お雇い外国人のケプロンを北海道のある地域に派遣しました。
そこで様々な作物の栽培研究に取り組んだところ、稲作に関しては芳しい展望がなく、結果、開拓使長官の黒田清隆も「その土地に合ったものとすべし」との通達を出します。
早い話、米ではなく麦を育てよ、という報告でした。
そうした状況の中、札幌の月寒村で、中山久蔵氏が、初の米収穫を成功させたと伝わります。道南地方から取り寄せた「赤毛」種を育成し、明治6年に約345キロを収穫したというのです。
ゆえに中山氏は「北海道稲作の父」と讃えられております。
しかし――。
中山氏より先に栽培に成功したのではないか? という人物が【伊達家】の入植グループにおります。
岩出山城の伊達邦直氏と共に北海道当別町へ入植した瀬戸勘三郎氏です。
戊辰戦争後、録を大幅に減らされた伊達家では、多くの者が北海道へ入植しました。
瀬戸氏は中山氏より1年早い明治5年、かつての本拠地・宮城県より用いた赤毛種の種籾を当別町で栽培。まずは明治5年と6年の二度にわたり行っています。
その結果は?
全滅です。
と言っても育ちが著しく悪かったとかではなく「鹿の食害に遭った」とされ、瀬戸氏の功績を記す北海道当別町のレポートでは、当時の状況を以下のように分析しております。
明治5年、6年は開拓使によって「米作りが禁じられ、麦栽培が推奨されていた時期」であり、仮に成功しても報告しづらい状況であった。
全滅としたのはそのためで、実際は成功していた可能性もあるのではないか。
ケプロンが調査をした「ある地域」とは、まさしくこの当別町のこと。
瀬戸氏としても、開拓使の意に反して断行した米栽培を報告しづらかったようです。
その証拠に明治14年、再び米作りに挑戦したときには成功し、米麦品評会で7等を受賞していると同町のリポートに伝わっています(当別町140年企画第7話こめづくりの今昔物語PDF)。
アイヌの知恵で広がる食生活
そんな入植者に食生活での知恵を授けたのが、アイヌの人々でした。
『ゴールデンカムイ』においてアシリパがウサギを捕らえるために作っていた針金の罠があります。あれと同じ原理の罠が、開拓者の間では広まっていました。
アシリパが食べていたギョウジャニンニク、フキといった山菜も、大事なものです。
タンポポ、ヨモギ、セリ、ミツバ、サンショウ……山の恵みは、食生活に様々な彩りをもたらしました。
北海道といえば、欠かせない存在があります。
ヒグマです。
ヒグマにとっても、入植者にとっても、互いに食料になるという遭遇でもありました。
不幸な事故も起こっています。
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ヒグマが人を食べるだけではなく、その逆もありまして。
二瓶鉄造(漫画ゴールデンカムイの凄腕猟師)のような猟師が北海道にはおりました。特に冬のヒグマは、分厚い皮下脂肪が栄養満点なのです。
彼らはヒグマを仕留めると、毛皮や肉を近隣に配りました。
肝臓は薬物としても珍重されたものです。
こうした狩猟の背景に、アイヌから伝わった知恵があることは、言うまでもありません。
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