吉本興業の始まりとなった第二文芸館/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

漫才の歴史はいつから始まったのか M-1主催者の吉本興業はドコまで関係ある?

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吉本がお笑いを捨てる!?

1945年(昭和20年)、日本は敗戦を迎えました。

しかし、大阪には劇場どころか食料もありません。

この状況でどうやって人を笑わせるのか。

正之助は、戦地から復員してきた芸人に吉本解散を言い渡します。

どうしても去ろうとしないアチャコだけを残し、他は皆四散してしまいました。

大阪の焼け跡に寄席を復活させたのは、ライバルである松竹でした。

これを見て思うところがあったのでしょうか。

敗戦後一年を経て1946年(昭和21年)、正之助は千日前グランド劇場を再開させます。

続けて梅田と新世界にもグランド劇場ができました。

ただし、ここで行われたのは映画の上映です(京都のグランドは進駐軍向けキャバレー)。

正之助は、これからは映画の時代であり、配給でいこうと考えていたのです。

彼は1947年(昭和22)には東宝株式会社の取締役におさまり、ますます映画に注力するようになりました。

そして1948年(昭和23年)、吉本は株式会社に上場し、1950年(昭和25年)には、最大の功労者である吉本せいが世を去ります。

笑いを捨てた吉本興業を、彼女はどう思っていたのでしょう。

 


「花のれん」の復活と吉本新喜劇

笑いを捨て、映画だけにしぼった吉本。演芸ブームが起こっても、ライバル松竹が笑いを席巻しても、手を出すことはありませんでした。

しかし、時の流れは速いものです。すぐに映画すら脅かしかねない技術が誕生しました。

テレビです。

この状況に危機感を抱いたのは、吉本の八田竹男でした。

「このまま映画だけに絞っていたらあかん」と、笑いの復活と、テレビとの連携を訴えるのです。

正之助としては、戦後芸人を手放した苦い経験もあります。同時に、映画だけでうまくいっているのだから、という思いもありました。

しかし、八田の熱意に押され、もう一度お笑いをやることを決意します。

思うが早いが梅田グランドを改装して「うめだ花月」をオープン。

吉本興業の“紋”である花菱を描いた「花のれん」が復活を遂げました。

八田の思いは、他のライバルに対抗することではなく、まったく新しい笑いを、テレビを通してお茶の間に届けること。

ライバルの松竹が義理人情を重視した演芸であるのに対して、若者を狙ったナンセンスな笑いを作り出すことにしました。

それこそが今ではコテコテと称される「吉本新喜劇(→link)」の誕生です。

八田の読みは当たりました。

テレビは新世代の娯楽として、日本人にすっかり定着したのでした。

 


苦難の時代と笑いの王者へ

勢いにのった吉本は演芸場の「花月」を復活させるのですが、危機が訪れます。

1963年(昭和38年)、正之助が病に倒れてしまったのです。

この後を受けて東京にいた弟の弘高が社長に就任しますが、今度は1966年(昭和41年)に弘高が病に倒れ、正之助が復帰することになります。

実はこの頃の吉本は、低迷期でした。

復活の契機は1967年(昭和42年)、テレビではなく、深夜ラジオでした。

パーソナリティを務める若手落語家・三代目笑福亭仁鶴が、若者中心に大人気を博したのです。

更には桂三枝(現在の文枝)もラジオで人気に火が付き、この二人に加えて横山やすし・西川きよし(やすきよ)の漫才コンビが吉本の人気御三家となり、にわかに吉本全体が上向きになります。

1980年(昭和55年)には「漫才ブーム」も到来しました。

今の若い方たちにとってかろうじて馴染みがあるのは「ビートたけし」のツービートぐらいかもしれませんが、吉本興業でもオール阪神・巨人やB&B(ただし事務所を転々)、西川のりお・上方よしお、島田紳助・松本竜介など数多の人気芸人を抱え、売り上げはぐいぐいと伸びてゆきます。

ただしブームは僅か二年ほどで終焉。

その反動でしょうか、漫才そのものの人気にも翳りが見え始めます。

そこでめげるどころか新たな笑いを模索し、実現してしまうのが吉本の吉本たる所以なのでしょう。

1982年(昭和57年)、その後の大改革となる「吉本総合芸能学院」(NSC)を大阪に開校するのでした。

師匠に弟子入りせず、若い世代のセンスを伸ばす――。

そんなスタイルが受け入れられて、一期生の中からダウンタウンやトミーズ、ハイヒールが出てきたことは周知のところでしょう。

この革新的な養成所ブームは、今や他のお笑い事務所でも当たり前となり、吉本以外からも多くの若手芸人が輩出されるようになっております※吉本も1995年(平成7年)に東京で開校。

しかし、今後、どんな新しいお笑いが出てくるのか。

となると、恥ずかしながら筆者の知見では想像すらつきません。

それは漫才ブームの頃に人気となったベテラン芸人を見れば一目瞭然かもしれません。

正月などの特番で、たまに彼らの話芸をテレビで見かけても、腹の底から『面白い!』と笑える方は、失礼ながら少ないでしょう。

定番のギャグやダジャレ、上手いコトを言うなどして、ご年配の芸人さんがニコニコと笑顔を浮かべ、これで漫才ブームの頃はみんながゲラゲラ笑っていた。

しかし、今それを見せられても、多くの人は“意外さ”を感じられない――要はツマラナイ。

特にアラフォー世代から下はその傾向が顕著で、ほぼ全員がダウンタウン以来の笑いに影響を受けすぎていて、それがスタンダードになっています。

そんな状況で、次に新しい笑いなんて生まれてくるのでしょうか。

いや、それでもやってしまうのが吉本なのでしょう。

それこそが“伝統と革新”を歴史に持つ、彼らの強みかもしれません。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
矢野誠一『新版 女興行師 吉本せい 浪花演藝史譚 (ちくま文庫)』(→amazon
堀江誠二『吉本興業の研究 (朝日文庫)』(→amazon

【参考サイト】
吉本興行ヒストリー(→link

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