大河ドラマ『光る君へ』でファーストサマーウイカさん演じる清少納言はどんな女性だったのか?
というと、やはり紫式部と並ぶ才女という見方が根強いでしょう。
女性を中心とした文学サロンが数多く開かれていた当時。
清少納言は、その代表格である一条天皇の中宮・藤原定子(父親は藤原道隆)に仕え、同じく一条天皇の后になった藤原彰子(と紫式部)とは、自然と対抗するようなポジションになった。
だからでしょう。『光る君へ』の劇中でも、かなり際立った個性を発揮していて、この先ますます劇中での注目度は高まりますが、実際、彼女はどんな女性だったのか?
本記事で、清少納言の生涯を振り返ってみましょう。
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文学的才能に恵まれた血筋だった
清少納言と言えば、三大随筆のひとつ「枕草子」の著者。
それも突発的に備わった才能ではなく、血筋的に文学的素養のある家柄でした。
父・清原元輔(きよはらのもとすけ)は後撰和歌集の撰者の一人で、「梨壺の五人」と称されていた人です。
清少納言もそれを誇りに思っており、彼女が定子の元に出仕し始めた頃、「父の名を辱めたくないので歌は詠まない」といって許された……なんてことがありました。
元輔もさすが清少納言の父というべきか、ユニークな人だったらしき逸話が多々あります。
彼は頭髪が寂しい感じの人だったらしいのですが、ある年の賀茂祭(葵祭・貴族のための祭)の最中に落馬してしまい、冠が脱げてしまうという珍事がありました。
この時代、頭頂部を人に見せてしまうというのはとても失礼かつ恥ずかしいこと。
常人であれば真っ赤になって逃げ出してもおかしくないところです。
しかし、元輔は冠をかぶり直そうともせずに、見物のため並んでいる車のひとつひとつに弁解を述べて歩いたのだとか。
いっそ清々しいほどの開き直りようです。それがまた見物客の笑いを誘った、と。なんというか「ああ、親子なんだなぁ」と感じる話ですね。
また、曽祖父もしくは祖父の清原深養父(きよはらのふかやぶ)も、百人一首の次の歌などから、茶目っ気がうかがえます。
「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ」
【意訳】夏の夜は明けるのが早いなあ。沈む間もなかった月は、今頃慌ててどこかの雲に宿を取っているだろう
月がコロコロと動いて、可愛く感じてしまうような。わかりやすい歌ですよね。
橘則光と結婚してスグ離婚 でも友達みたいな
清少納言の生没年が不明なため、何歳ごろのことかはっきりしませんが、父の元輔が周防守に赴任した頃に彼女も同行していたといわれています。
その後、藤原定子に仕える前に橘則光(たちばなののりみつ)という貴族と結婚しました。
が、早いうちに夫婦関係は解消されていたようです。
それでいて友達付き合いは続けていたらしく、宮中でも「あの二人はそういう仲なのよ」(意訳)とされていたとか。
男女の友情はなかなか成立し難いものですが、この二人の場合は違ったようですね。
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定子に仕え始めたのは、正暦三年(992年)頃とされています。その父で「中関白」と呼ばれた、藤原道隆の絶頂期でした。
中関白家は貴族社会には珍しく、親子仲・きょうだい仲が非常に良好な一家で、枕草子でもその様子がたびたび描かれています。
しかし、長徳元年(995年)、道隆の死去や定子の兄弟の政治的ミスで、政権の座は道隆の弟・藤原道長に移りました。
このころ清少納言は「道長に通じている」という根も葉もない噂を立てられ、一時、実家に帰っています。
枕草子を書き始めたのもこの時期だったのだとか。
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さらに、道長の娘・彰子が入内してしばらくすると、長保二年(1000年)に定子が産褥で崩御。
明確な時期は定かでないものの、定子崩御が清少納言にとって宮中を去るに十分なキッカケであったことは想像に難くありません。
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