……とはならないのが政治の世界。本日は、そんな運命を辿ったある家のお話です。
寛弘七年(1010年)1月28日は、藤原伊周(これちか)が亡くなった日です。
長徳の変という騒動に関わった方ですが、彼についての印象は、「誰ソレ?」という人と、「道長に負けた人だっけ?」という人の真っ二つに分かれるでしょう。
教科書に載っているのがそのくらいなので仕方ありません。
しかし、彼とその兄弟たちの生涯は「一族揃って、お祓いでもしてもらった方が……」と言いたくなるようなものでした。
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道長たちを飛び越え内大臣となる
伊周は、藤原北家の当主だった道隆の三男として生まれました。
長兄・次兄は正室の生まれではなかったため、伊周は幼い頃から次期当主として育ったものと思われます。
父・道隆のことを「中関白」とも呼ぶので、藤原北家の道隆系は「中関白家」とも称します。
歴史的には「藤原道長のライバルだった家」くらいの感じでしょうか(ちなみに道隆と道長は兄弟ですので、伊周にとって道長は叔父に当たりますね)。
当時は中関白家の絶頂期で、伊周も11歳で元服してからトントン拍子に官位も上がっていきました。
特に父が一条天皇の摂政になり、妹の藤原定子が中宮になってからは、異例ともいえるスピードで昇進。
18歳のときには妻の父から譲られたとはいえ、権大納言になっているのですから、その異様さがうかがえるというものです。
いやいや、まだ終わりません。
20歳のときには、父のゴリ押しで道長たちを飛び越えて内大臣にまでなっています。
この官位がどれほどのものかというと……徳川家康が53歳のとき、豊臣秀吉の推挙で就いたのが内大臣です。
秀吉の最晩年から大坂の役が終わるくらいまでの家康のことを「内府(だいふorないふ)」と呼ぶことがあるのは内大臣の中国名からきています。
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そんな高い地位に、まだまだ若造がついたのですから、道長や藤原氏の他の面々はもちろん、公家のあっちこっちから恨みや妬みを買っていたであろうことは想像できます。
そしてこれが後々、伊周自身を苦しめることになってしまうのです。
道長に呪詛をかけている、という噂まで
父・藤原道隆は長徳元年(995年)に糖尿病が悪化。
最後の最後まで伊周をゴリ押しして「私がやっていた仕事を、伊周にそのまま引き継がせてほしい」と言い残しました。
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一条天皇としては『そうはいっても、身分上、一度は道隆が目を通してくれないと困るんだけど(´・ω・`)』と思い、まずは道隆に書類を回した後、伊周が見るという形式を取るよう命じます。
が、ノリノリの伊周としてはこれを不服に思い、その気持を隠そうともしませんでした。
ようやく言い分が認められた後も、伊周は「節約のために服の裾の長さを統一しよう」などといった無茶苦茶な政策をやろうとして、またしても貴族たちの不評を買います。
こうして不穏な空気が漂う中、道隆が亡くなりました。
関白と藤氏長者(藤原氏のトップ)の座は、道隆の弟である藤原道兼(伊周の叔父)が引き継ぐものの、道兼もまた病ですぐに亡くなってしまいます。
こうなると政局が混乱するのは当たり前で、伊周と藤原道長は熾烈な政争を繰り広げることになりました。
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ときには宮廷で激しく口論し、その声が御殿の外まで聞こえることもあったといいます。
それにしたがって従者たちも互いに憎み合うわけで、伊周のすぐ下の弟・隆家の従者と、道長の従者が町中で大乱闘になり、道長の従者が殺されるという事件まで起きました。
さらに、伊周の母方の祖父・高階成忠が道長に呪詛をかけている、という噂まで立ちます。
現代なら「オカルト乙」で済む話ですが、当時「他人に呪詛をかける」というのはお咎めを受けてしかるべきことでした。
伊周に自覚はなかったでしょうが、彼は着々と破滅に向かっていたのです。
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