主人公まひろの母親が初回からいきなり刺殺されたり、平安京の郊外で直秀の遺体が鳥に突かれたり。
序盤から視聴者を驚愕させてきた大河ドラマ『光る君へ』は、終盤になっても見る者を驚かせたいようで……最後のメインイベントは【刀伊の入寇】が舞台となりました。
寛仁3年(1019年)、異国の武装集団が突然、対馬や壱岐、そして博多を襲撃してきたのですが、そのとき日本の武士はどう戦ったのか。
そもそも何処の誰が何のために襲いかかってきたのか。
当時のアジア情勢を踏まえながら、振り返ってみましょう。
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古代の国際認識とは?
日本人の先祖は何者なのか、何処から来たのか――。
いきなりスケールの大きい話で申し訳ありませんが、刀伊の入寇を考察する上で実はこの答えが非常に重要で難しい。
日本各地にある【徐福伝説】をご存知でしょうか?
始皇帝が不老不死の薬を求め、3,000人の童男童女と共に東方へ向かったというもので、かつては「これが日本人の先祖である」と東アジアでは信じられてきました。
今も西日本を中心に伝説が残っているほどです。
そんなもん荒唐無稽な話だろ……と笑い飛ばす方もいらっしゃるかもしれませんが、日本人のDNAを解析すると、実際、海を超えて辿り着いた人々のものもあります。
中国では、後漢から三国時代、未曾有の乱世を迎えました。
政治的な闘争だけでなく、気候変動による飢饉も重なり、人口が激減しましたが、全てが命を落としたのか?
というと、そう単純な話でもなく、人口を記録する政治力が落ちていたこともあるし、新天地を目指して大陸を離れた人もいる。
『三国志』の時代後も、長く分裂状態が続いた中国。
疲れ果て、こんな風に思った者がいないとは限らない。
「東の島から魏に使者が来たという。なんでも女王が治める穏やかな国だとか。こんな乱世を生きるより、その島で暮らした方がよいのでは?」
そうしてたどり着いた彼らが、日本で新たな人生を送ったとしても何の矛盾もありません。
歴史を考える上で注意したい点――古代の人々には、現代人のような民族としての自覚や国境意識がなかったことです。
近世になって芽生え始めた国民としての意識が、明治維新以降の近代で確固たるものとなった。
【脱亜入欧】が掲げられ、劣るアジアと日本は別だという意識が芽生えると、実在したかどうかさえ疑わしい神功皇后の【三韓征伐】伝説など、日本のアジア統治を正統化するための史観が強化される。
ヨーロッパ美女を意識したとしか思えない絵は、明治という時代にあった奇妙な意識を現代にまで伝えています。
そうした近世以降の意識は歴史認識にも悪影響を及ぼしました。
例えば【倭寇】は、明による海禁政策に応じられない密貿易集団をさしますが、近代日本の意識だとこうなってしまう。
「日本が支那(中国の蔑称)から買うものなどない。つまり【倭寇】は捏造である」
こうした歴史修正は今も存在します。
【倭寇】の記述は教科書にあるものの、それを逆手に取り、こうしたタイトルの記事やYouTube動画がでてくるのです。
「【倭寇】は反日の捏造!? 構成員は中国人だらけだった!」
捏造も何も、中国には【倭寇】が破損した文化財はじめ物証が大量にあります。
当時の国籍認識も現在とは異なり、明人であっても密貿易に従事し、日本の服装をして日本の港を本拠地とすれば、それはもう【倭寇】です。
【倭寇】からさらに歴史を遡って古代に目をやると、【遣唐使】や鑑真の苦難を想像されるでしょうか。
遣唐使はあくまで国家規模の一大プロジェクトであり、それ以外にも多くの人々が海を往来していました。
当時、日本に住む人々にとって、海の向こうは遠いようで近い国です。「先祖がいた場所」という認識を持つ者も少なくなかった。
こうして、ゆるやかに牧歌的に、古代の人々の血は混ざり合っていたのです。
刀伊=女真族とは
しかし時代が進み、王朝が確固たるものとなると、国の認識が強まってゆきます。
どんな王の支配に治まっているのか――その点で認識されるようになる。
【刀伊の入寇】という名称がまさにそれを示していて、高麗王朝の支配からはみ出し、その方面から来た【刀伊】の人々が日本へ【入寇=襲撃してきた】と認識している。
では【刀伊】とは何者なのか?
女真族とされています。
金朝、清朝を築いた、中国東北部由来の民族であり、朝鮮半島へもしばしば襲来していました。
特に、鴨緑江が凍って南東へ往来しやすい冬季になると、半島に住む人々は警戒心を強めたとされ、韓国映画やドラマにおいても、しばしば襲来する女真人が脅威として描かれています。
現在の中国と北朝鮮の国境近辺に住んでいたため、接触の機会が多かったのですね。
ですから日本とも関係があります。
『源氏物語』で末摘花が身につけている「黒貂(くろてん)の毛皮」は女真族経由でなければ入手できない。黒貂の毛皮と朝鮮人参は、東アジアの人々にとって北の大地から届く重要な交易品でした。
なお【女真族】は清朝建国の後、【満洲族】と名を改めています。
現在、日本では【満洲族】出身の皇族である、愛新覚羅氏末裔の方が眼科を開いています。
◆「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生”(→link)
女真族は、古来から日本とゆかりがある人々と言えました。
活発な倭国から 閉鎖的な大和へ
日本は長いこと、海を超えて朝鮮半島や中国とも対峙してきました。
朝鮮半島の歴代王朝は、強大な中国から頭を押さえつけられてきたようで、そう単純でもありません。
中国王朝が朝鮮半島まで進出し、逆に、手痛い反撃を受けることもしばしば。
古代において海を渡り、朝鮮半島まで到達した倭国の軍勢は、彼らを討伐しようと考えていたわけではなく、援軍として参加し、自国の権益を得ることが目的でした。
しかし、これに挫折してしまったのが天智2年(663年)【白村江の戦い】です。
百済・日本の連合軍と、新羅・唐の連合軍が対峙して、大敗。
唐の強大な力を目の当たりにした日本は、以降【遣唐使】を派遣し、律令国家として確立する道を選びます。
【遣唐使】は情勢によって派遣されなかったり、不定期的なものへと変貌し、ちょうど往来が途絶えていたころに唐が滅ぶと、なし崩し的に解消。
唐のあとは【五代十国時代】(907-960年)が続き、大陸は分裂状態の時代へ入ります。
大河ドラマ『光る君へ』の舞台は、大陸での動乱も落ち着き、北宋が成立したばかりの時代となります。
唐を真似するばかりではなく、ありとあらゆる面で日本らしさを生み出した時代――そんな説明がされますが、これでは誤解も生じやすい。
いくら隣国が荒れ果てようと、当時の平安貴族は輸入抜きでは生活が成立しないのです。
陶器。絹。香料。漢方医薬品。檳榔毛(びろうげ)の車を飾る椰子の葉。そして前述した黒貂の毛皮などなど……貴族の生活には、海を超えて届くものが必須。
そうした貿易に頼って生きているにもかかわらず、平安京の貴族は都から外へ出たからず、ましてや対外政策など真面目に考えていないようでした。
なんせ、当時、定番の左遷地といえば【太宰府】なのです。
本来なら、外交の玄関口である重要な拠点。現代であれば外交官とか外務大臣のように華々しい職とされてもおかしくないところですが、当時は、
「アイツがいっそ太宰府に流罪になればいいのによぉ!」
なんて調子で、罵倒されるような記録も残っているほどでした。
なぜ、そんな扱いになるか?
というと、当時、沿海地が非常に危険視されていたことと無関係ではないでしょう。
沿岸に大陸や半島からの船が現れると、当時の貴族は大変焦った。
『光る君へ』でも重要な場面となります。
漢籍教養を誇りにするまひろの父・藤原為時は、世渡りが下手で任官されません。
そんな為時が越前守として現地へ赴任するチャンスに恵まれたのは、一条天皇が彼の漢詩に感激したという話もありますが、実際はそうではないでしょう。
当時の越前に【唐船】が漂着しました(日本では王朝が交替しても「唐船」と呼んでいた)。
漢文スキルがある地方役人が応対すれば安心ということで、為時に当たらせました。
では、外交上の最重要拠点である太宰府はどうだったか?
というと、藤原道長との出世競争で兄と共に自爆して、左遷で流されてきた藤原隆家でした。
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