主人公まひろの母親が初回からいきなり刺殺されたり、平安京の郊外で直秀の遺体が鳥に突かれたり。
序盤から視聴者を驚愕させてきた大河ドラマ『光る君へ』は、終盤になっても見る者を驚かせたいようで……最後のメインイベントは【刀伊の入寇】が舞台となりました。
寛仁3年(1019年)、異国の武装集団が突然、対馬や壱岐、そして博多を襲撃してきたのですが、そのとき日本の武士はどう戦ったのか。
そもそも何処の誰が何のために襲いかかってきたのか。
当時のアジア情勢を踏まえながら、振り返ってみましょう。

馬上の女真人/wikipediaより引用
古代の国際認識とは?
日本人の先祖は何者なのか、何処から来たのか――。
いきなりスケールの大きい話で申し訳ありませんが、刀伊の入寇を考察する上で実はこの答えが非常に重要で難しい。
日本各地にある【徐福伝説】をご存知でしょうか?
始皇帝が不老不死の薬を求め、3,000人の童男童女と共に東方へ向かったというもので、かつては「これが日本人の先祖である」と東アジアでは信じられてきました。
今でも西日本を中心に伝説が残っているほどです。
そんなもん荒唐無稽な話だろ……と笑い飛ばす方もいらっしゃるかもしれませんが、日本人のDNAを解析すると、実際、海を超えて辿り着いた人々のものもあります。
中国では、後漢から三国時代、未曾有の乱世を迎えました。
政治的な闘争だけでなく、気候変動による飢饉も重なり、人口が激減しましたが、全てが命を落としたのか?
というと、そう単純な話でもなく、人口を記録する政治力が落ちていたこともあるし、新天地を目指して大陸を離れた人もいる。
『三国志』の時代後も、長く分裂状態が続いた中国。
疲れ果て、こんな風に思った者がいないとは限らない。
「東の島から魏に使者が来たという。なんでも女王が治める穏やかな国だとか。こんな乱世を生きるより、その島で暮らした方がよいのでは?」
そうしてたどり着いた彼らが、日本で新たな人生を送ったとしても何の矛盾もありません。
歴史を考える上で注意したい点――古代の人々には、現代人のような民族としての自覚や国境意識がなかったことです。
近世になって芽生え始めた国民としての意識が、明治維新以降の近代で確固たるものとなった。
【脱亜入欧】が掲げられ、劣るアジアと日本は別だという意識が芽生えると、実在したかどうかさえ疑わしい神功皇后の【三韓征伐】伝説など、日本のアジア統治を正統化するための史観が強化される。
ヨーロッパ美女を意識したとしか思えない絵は、明治という時代にあった奇妙な意識を現代にまで伝えています。

政府紙幣(一円券)に描かれた神功皇后/wikipediaより引用
そうした近世以降の意識は歴史認識にも悪影響を及ぼしました。
例えば【倭寇】は、明による海禁政策に応じられない密貿易集団をさしますが、近代日本の意識だとこうなってしまう。
「日本が支那(中国の蔑称)から買うものなどない。つまり【倭寇】は捏造である」
こうした歴史修正は今も存在します。
【倭寇】の記述は教科書にあるものの、それを逆手に取り、こうしたタイトルの記事やYouTube動画がでてくるのです。
「【倭寇】は反日の捏造!? 構成員は中国人だらけだった!」
捏造も何も、中国には【倭寇】が破損した文化財はじめ物証が大量にあります。
当時の国籍認識も現在とは異なり、明人であっても密貿易に従事し、日本の服装をして日本の港を本拠地とすれば、それはもう【倭寇】です。
【倭寇】からさらに歴史を遡って古代に目をやると、【遣唐使】や鑑真の苦難を想像されるでしょうか。
遣唐使はあくまで国家規模の一大プロジェクトであり、それ以外にも多くの人々が海を往来していました。
当時、日本に住む人々にとって、海の向こうは遠いようで近い国です。「先祖がいた場所」という認識を持つ者も少なくなかった。
こうして、ゆるやかに牧歌的に、古代の人々の血は混ざり合っていたのです。
刀伊=女真族とは
しかし時代が進み、王朝が確固たるものとなると、国の認識が強まってゆきます。
どんな王の支配のもとに治まっているのか――その点で認識されるようになるのです。
【刀伊の入寇】という名称がまさにそれを示していて、高麗王朝の支配からはみ出し、その方面から来た【刀伊】の人々が日本へ【入寇=襲撃してきた】と認識している。
では【刀伊】とは何者なのか?
女真族とされています。
金朝、清朝を築いた、中国東北部由来の民族であり、朝鮮半島へもしばしば襲来していました。
特に、鴨緑江が凍って南東へ往来しやすい冬季になると、半島に住む人々は警戒心を強めたとされ、韓国映画やドラマにおいても、しばしば襲来する女真人が脅威として描かれています。
現在の中国と北朝鮮の国境近辺に住んでいたため、接触の機会が多かったのですね。
ですから日本とも関係があります。
『源氏物語』で末摘花が身につけている「黒貂(くろてん)の毛皮」は女真族経由でなければ入手できない――黒貂の毛皮と朝鮮人参は、東アジアの人々にとって北の大地から届く重要な交易品でした。
なお【女真族】は清朝建国の後に【満洲族】と名を改めます。
現在、日本では満洲族出身の皇族である、愛新覚羅氏末裔の方が眼科を開いています。
◆「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生”(→link)
女真族は、古来から日本とゆかりがある人々と言えました。
活発な倭国から 閉鎖的な大和へ
日本は長いこと、海を超えて朝鮮半島や中国とも対峙してきました。
朝鮮半島の歴代王朝は、強大な中国から頭を押さえつけられてきたようで、そう単純でもありません。
中国王朝が朝鮮半島まで進出し、逆に、手痛い反撃を受けることもしばしば。
古代において海を渡り、朝鮮半島まで到達した倭国の軍勢は、彼らを討伐しようと考えていたわけではなく、援軍として参加し、自国の権益を得ることが目的でした。
しかし、これに挫折してしまったのが天智2年(663年)【白村江の戦い】です。
百済・日本の連合軍と、新羅・唐の連合軍が対峙して、大敗。
唐の強大な力を目の当たりにした日本は、以降【遣唐使】を派遣し、律令国家として確立する道を選びます。

遣唐使船/wikipediaより引用
【遣唐使】は情勢によって派遣されなかったり、不定期的なものへと変貌し、ちょうど往来が途絶えていたころに唐が滅ぶと、なし崩し的に解消。
唐のあとは【五代十国時代】(907-960年)が続き、大陸は分裂状態の時代へ入ります。
大河ドラマ『光る君へ』の舞台は、大陸での動乱も落ち着き、北宋が成立したばかりの時代となります。
平安時代は【国風文化】の時代とされます。
唐を真似するばかりではなく、ありとあらゆる面で日本らしさを生み出した時代――そんな説明がされますが、これでは誤解も生じやすい。
いくら隣国が荒れ果てようと、当時の平安貴族は輸入抜きでは生活が成立しません。
陶器、絹、香料、漢方医薬品、檳榔毛(びろうげ)の車を飾る椰子の葉、そして前述した黒貂の毛皮などなど……貴族の生活には、海を超えて届くものが必須。
そうした貿易に頼って生きているにもかかわらず、平安京の貴族は都から外へ出たからず、ましてや対外政策など真面目に考えていないようでした。
なんせ、当時、定番の左遷地といえば【大宰府】なのです。
本来なら、外交の玄関口である重要な拠点。
現代であれば外交官とか外務大臣のように華々しい職とされてもおかしくないところですが、当時は、
「アイツがいっそ大宰府に流罪になればいいのによぉ!」
なんて調子で、罵倒されるような記録も残っているほどでした。

3km離れた岩屋山から撮影された大宰府跡
なぜ、そんな扱いになるか?
というと、当時、沿海地が非常に危険視されていたことと無関係ではないでしょう。
沿岸に大陸や半島からの船が現れると、当時の貴族は大変焦った。
『光る君へ』でも重要な場面となります。
漢籍教養を誇りにするまひろの父・藤原為時は、世渡りが下手で任官されません。
そんな為時が越前守として現地へ赴任するチャンスに恵まれたのは、一条天皇が彼の漢詩に感激したという話もありますが、実際はそうではないでしょう。
当時の越前に【唐船】が漂着(日本では王朝が交替しても「唐船」と呼んでいた)。
漢文スキルがある地方役人が応対すれば安心ということで、為時に当たらせました。
では、外交上の最重要拠点である大宰府はどうだったか?
というと、藤原道長との出世競争で兄と共に自爆して、左遷で流されてきた藤原隆家でした。
対外危機意識まで「平安」になるリスク
果たして朝廷は、対外脅威を真剣に捉えていたのか?
当時の政府を見ていると、あまりに怠惰というしかありません。
かつての中央には国防意識もありました。
【防人】(さきもり)です。
はじめは東国、のちに九州から徴兵された兵士が、大陸や半島から襲来する敵に備えていたものですが、10世紀初頭に唐が滅び、前半に新羅も消えると、日本の危機意識は低下。
防人はなくなり、九州では在地の武士団が形成されてゆきました。

画像はイメージです(男衾三郎絵詞/wikipediaより引用)
そして11世紀初頭に起きる刀伊の入寇は、重要なターニングポイントといえます。
藤原隆家という中央貴族のもとで、九州の在地武士団が結束して戦う、そんな構図があるのです。
唐や新羅という重石が無くなれば、女真族が活発化するのは自然なこと。
普通なら日本も対策を取らねばなりませんが、当時の朝廷は女真が高麗に朝貢していると認識――つまり女真は高麗に制御され、何か日本に災いが到来するような危機感はありませんでした。
甘すぎる見通しでした。
四方を海に囲まれた日本史は、対外関係を意識することで理解しやすくなります。
それは今も昔も変わらず、平安貴族が遊んでばかりだったとは決して思いません。
しかし、対外関係と、軍事防衛については、どうしたって緊張感に欠けていたのです。
寛仁3年 事件までの流れ
寛仁3年(1019年)、実際の事件が起こるまでのあらましを辿りましょう。
藤原道長に抵抗した三条天皇の時代が終わり、やってきたのが後一条天皇の治世。
道長の嫡男である藤原頼通が摂政・関白を務める時代です。
道長は病気がちになり出家し、藤原実資は眼病で視力を失いつつありました。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
彼らにとって人生の秋が訪れ、満月か欠けてゆくような時代に、おそるべき事件は起きました。
このとき、九州には権帥(ごんすい)である藤原隆家がいました。
隆家は41歳。
本来ならば表舞台からは遠ざかった“過去の人”で、かつては叔父の道長と激しい政治闘争を繰り広げた人物です。
隆家は道長の兄・藤原道隆の二男であり、清少納言の『枕草子』にも“やんちゃな貴公子”として登場。
若い頃はかなり血気盛んであり、それが仇となって花山法皇に誤射してしまう【長徳の変】を起こして但馬へ流されていたのです。
その後、政界復帰を果たしたとはいえ、もはや政治力を取り戻すには至らず。
姉の藤原定子と一条天皇との間に儲けた皇子が即位すれば、まだ逆転のチャンスはあったものの、道長の顔色をうかがうばかりの朝廷でそんなことは許されません。
結局、道隆の子たちは定子も含めて失脚。
隆家が九州へ出向いた頃は、定子や兄の藤原伊周だけでなく道長に抵抗していた三条天皇も崩御していて、隆家は九州でひとり虚しさを感じていたとしてもおかしくない時代です。
このときは目の治癒のため大宰府権帥とされていました。
実質、都から遠い地へ飛ばされていたも同然で、いわば“終わった存在”だったのが隆家という人物でした。
大型船と強弓の襲来
事件の始まりは寛仁3年(1019年)3月28日のことです。
刀伊の船50艘あまりが対馬に突如あらわれ、殺人や放火などの残虐行為に及びました。
老人や子どもは斬り捨てられ、牛馬も殺されてしまう。
そして抵抗できない者4~5百人が捕縛されると、船に載せられました。
本土で防戦だ――と迎え撃つ日本側には、地の利があっても非常に苦しい状況です。
とにかく沿岸線が広い。
次は九州に上陸する、と予測はできても具体的な確定まではできませんので、どうしたって兵力は分散させられてしまう。
そんな絶体絶命の中、敵の首をあげて武功を稼ぐツワモノもおりました。
海賊襲来は4月7日に大宰府に伝えられ、藤原隆家もここで危機を知ったことでしょう。8日には応戦部隊が派遣され、強い風雨の中、防戦に挑むこととなりました。
とはいえ、兵器や装備面で劣ることも確かです。
敵の弓矢は強力で、盾を破壊するほどの威力だとされます。
日本の弓矢の発達は独特です。中国では標準的な弩は廃止され、剛力を要求される独自の形状となっています。相手は和弓とは異なる武器を装備していたのでしょう。

画像はイメージです(男衾三郎絵詞/wikipediaより引用)
船も、日本海を越えられるだけの大型船ですから、手強い。
中国のような大河がない日本で、戦闘用の舟が発達するのは戦国時代以降のことです。
それまでは小さくシンプルな構造だったことが、【壇ノ浦の戦い】や【元寇】を描いた絵で確認できます。
そのとき朝廷は……祈った
4月7日の事件一報から、10日ほども経過すると、京都の都にも事件の概要が届けられました。
そしてそれを受け取っても全く意味がないほど、朝廷側の軍事知識はあまりに疎かで、危機意識に欠けていました。
何かあれば神頼み。ともかく神と仏に祈るしかありません。
戦術的に全く頼りにならず、実際問題、京都に一報が届く頃には、すでに主な戦闘は終結していました。
王朝貴族の弱さは誇張されがちという指摘もありますが、こうした状況からすると全くの無根拠ではないでしょう。
逆に、神仏への祈りや祟り、呪詛などが、どれだけ重視されていたか?ということは浮かんできます。
いずれにせよ現地で敵襲を追い返すことに成功した藤原隆家は、深追いを禁じています。

画像はイメージです(男衾三郎絵詞/wikipediaより引用)
敵軍を殲滅したとか、総大将を討ち取ったとか、わかりやすい戦績が必要なわけではなく、敵を意気沮喪させ、日本の海岸から追い払えばよいのです。
もしも深追いして、高麗や宋にまで攻撃が及ぶようなことがあったら、余計な危険を生じさせるかもしれない。つまり、隆家の判断は的確だったと言えるでしょう。
後世からすれば曖昧な決着に思えるかもしれませんが、当時の認識としては十分な勝利でした。
この危機から何を学んだのか?
刀伊の入寇は、他の争乱と比べると、決して派手な事件ではありません。
しかし、歴史的意義は深いと言える。
期せずして攻められたことにより、朝廷の認識の甘さや曖昧さを際立たせたのです。
以下に問題点をまとめておきましょう。
・信賞必罰は厳正だったか?
軍隊の規律を保つうえで信賞必罰は重要です。
しかし朝廷では恩賞を与えるかどうか、ぐずぐずとしてなかなか決まりません。

画像はイメージです(駒競行幸絵巻/wikipediaより引用)
・曖昧な国際認識
朝廷は当初、高麗の攻撃ではないか?と誤認していました。
後に女真族が主体であると判明しますが、判断力の遅さは国家として危機レベルと言えるかもしれない。
・勝因の分析が無茶苦茶だ
事件は、藤原実資の日記『小右記』や平安末期の物語『大鏡』にも記されています。
この『大鏡』による勝因分析が非常に雑です。
武備は疎かだったのに、藤原隆家が高貴な家の出で「大和心」があったため勝利できたとあります。
いくら藤原氏を賛美する『大鏡』とはいえ、どうしようもなく幼稚な話。
精神的勝利を強調してどうしようというのか。
・武士の過小評価
隆家の精神性や血筋に勝因を求める貴族たち。
彼らの思考では、異国の襲撃を追い払った“武士の強さ”を適正に評価することはできなかったでしょう。
結果、後に慈円が嘆くことになる「武者の世」を到来させてしまったのかもしれません。
武家政権である鎌倉幕府を誕生させてしまった。
当時の平安貴族は、漢籍を読みこなしていた者がいたにもかかわらず、兵法書の類はそうでもなかったようです。

笠懸をする武士『男衾三郎絵詞』より/wikipediaより引用
源義経には「鬼一法眼伝説」があります。
天狗の化身から神秘の兵法書『六韜三略』を授与されたというのですが、実際のところ中身は漢籍の類であり、何か特別なパワーが宿っているわけでもありません。
要するに当時の日本では、中国古代からある兵法をマスターするだけで連戦連勝できるほど、軍事への認識が曖昧だったとも言える。
そんな王朝に軍事的な引き締めを望めるわけもありません。
もうひとつ、中国古典からの知識で注目したいものがあります。
白居易『長恨歌』です。
清少納言も紫式部もそれぞれの著作で引いている名作ですが、彼女らの興味関心は、楊貴妃の美貌や悲恋に留まります。
当時の貴族は、この詩の背景にある【安史の乱】の危険性をどこまで認識できたか。
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あの反乱は、地方に勢力をもつ軍事勢力がクーデターを起こしたという構造がありました。
日本も決して無関係とは言えないのです。
たしかに【刀伊の入寇】が起きた時代、武士は朝廷に従う存在でした。
藤原道長が頂点を極めた摂関政治のあと、天皇が上皇として権力を握る院政が拡大すると、今度は天皇と上皇の争いに武士が引き込まれます。
そしてそれが決定的な誤りでした。
平家を台頭させるだけにとどまらず、その後、源頼朝率いる坂東武者たちに鎌倉幕府を作らせてしまったのです。
しかも、その幕府を成敗するため後鳥羽院が兵を挙げるも、あっさり京都に攻め込まれ、王朝貴族の世は終わりを告げる(【承久の乱】)。
それから時は流れ、江戸幕府が滅びる前夜――2027年大河ドラマの主役でもある小栗忠順はこう述懐しました。

小栗忠順/wikipediaより引用
「どうにかなろう」という言葉が幕府を滅ぼした。
事の本質を直視せず、先送りにする体質は、江戸幕府のみならず近現代にまで通ずる、歴史的な悪癖なのかもしれません。
【刀伊の入寇】にせよ他の国内外問題にせよ、他人事ではなく真摯に向き合っていれば、歴史は大きく変わっていたはずです。
日本史のイヤ~な宿命をありありと認識させる【刀伊の入寇】という事件。
名門貴公子が戦って勝利したと片付けるだけでなく、教訓として読み解きたい出来事でした。
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【参考文献】
関幸彦『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』(→amazon)
森公章『東アジアの動乱と倭国』(→amazon)
片倉穣『日本人のアジア観』(→amazon)
他






