正平十三年・延文三年(1358年)4月30日は、室町幕府初代将軍・足利尊氏が亡くなった日です。
鎌倉幕府を滅亡させたかと思ったら、南北朝問題と兄弟喧嘩で激しく東奔西走したり、室町幕府を開いたり、さらには一時「日本三悪人」の一人に数えられたり……。
何かとお騒がせなタイプの人ですが、一方でカリスマ的な魅力も持っていたと思われる人です。
摩訶不思議な尊氏の生涯を追いかけてみましょう。
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最初は日陰者だった尊氏
足利尊氏は当初「高氏」という字を使っていました。
当時の鎌倉幕府執権・北条高時から一字もらったものとされていますが、足利氏は源氏の一門。
源頼朝の舅の家とはいえ、本来ならば家臣筋の北条氏から偏諱を受けるというのは、妙な気持ちになったことでしょう。
そんな高氏の出生地はドコなのか?
というと、よくある話ながらハッキリしていません。
足利氏はその名の通り下野国足利(現・栃木県足利市)を本拠としていながら、鎌倉幕府ができてからは源氏の名家代表として鎌倉にいることが多かったからです。
また、母が上杉氏の出身であることから、その本拠地だった丹波国上杉荘(現・京都府綾部市)で生まれたのでは?という説も有力になっています。
これらの理由により、
「もしかすると、高氏は足利に行ったことがなかったのでは?」
という見方も出てきています。
新田義貞が鎌倉幕府にモブ扱いされ、地元で苦労していたのとは対照的ですね。
ちなみに、足利家と新田家の初代は兄弟同士ですので、まさに血を分けた一族だったりします。
側室の子で長男でもなかった
後の室町幕府創設者にしては曖昧なところが多い足利高氏。
父の正室生まれでもなければ、庶出の長男でもありません。
正室生まれの兄・足利高義がいて、順当に行けば彼が足利家を継ぎ、高氏は弟・足利直義とともに長兄を支えていくことになっていたでしょう。
しかし、高義が若くして亡くなってしまい、その子供たちはまだ幼少ということで、尊氏が跡目を継ぐことに……なりませんでした。
長兄が亡くなったとき、高氏は12歳。
そのタイミングで元服をして、兄の代わりに跡を継いでも不思議ではない歳です。
なのに父・貞氏はそうせず、自分が再登板しています。
「正室の血筋を引く少年を当主にするのは心もとないが、だからといっていきなり側室生まれの次男に継がせると後々面倒そうだ」
おそらく、そんな考えだったのでしょう。この摩訶不思議な思考回路は、後の尊氏とも少し似ている気がします。
親子って、似てほしくないところが似るものですよね。
27歳でようやく足利当主に
足利高氏は、15歳で元服。
その後もすぐには家督を継がせてもらえず、しばらくは日陰とも日向ともいえない場所に置かれました。
ただし、非公式に結婚して息子をもうけたりして、不幸まっしぐらというわけではなかったようです。
足利家は代々北条一族から正室をもらうことになっていたので、高氏も例にもれず、北条氏の一族から正室を迎えています。
赤橋登子と言い、後に室町幕府二代将軍・足利義詮を生む人です。
ここでもまた「側室生まれの長男」と「正室生まれの次男」という複雑な構図ができてしまったのですが、後に哀しい形で解決することになります。
元弘元年/元徳3年、父の貞氏が亡くなると、高氏は27歳でやっと足利の家督を継ぐことができました。
同時期に、上方では南朝の後醍醐天皇が「今度こそ鎌倉幕府を倒してやる!」と音頭を取りはじめます。
実はこれ以前にも後醍醐天皇は倒幕の動きを見せていたのですが、計画が露見して延び延びになっていました。
今日では当時の年号をとって【元弘の乱】と呼ばれているこの戦い。
鎌倉幕府もタダでやられるワケはありませんから、全国の武士に動員をかけます。
高氏は「父の喪中&自分も病気なので……」という至極まともな理由で断ろうとしましたが、「幕府が危ないってときにフザけてんの?」(※イメージです)と言われて無理やり出陣させられたことになっています。
『太平記』などでは、これをきっかけに高氏が鎌倉幕府や北条氏に恨みを持つようになったとされていますが……。
こうして元弘元年(1331年)、足利軍は西へ向かったのでした。
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