正長の土一揆

徳政碑文が刻まれた疱瘡地蔵/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

正長の土一揆で借金チャラ~農民・地侍・馬借の蜂起で徳政令ブームへ

正長元年(1428年)8月から永享元年(1429年)7月にかけて、正長の土一揆が発生しました。

畿内や近江にかけて起きた「借金チャラ!」を要求する大規模な一揆であり、このときの様子は『大乗院日記目録』に

「天下の土民蜂起(中略)日本開白(闢)以来土民蜂起これ初なり」

と記されるほど、都ではインパクトがあった出来事とされます。

それまで歴史の表舞台に立つことがほとんどなかった庶民が躍り出たという点でも意義深いものがあり、以降、その数は増えていきます。

そこで本稿では、室町時代から始まった、ちょっと物騒な解決方法

土一揆

に注目。

「どいっき」とも読まれますが、史料には「つちいっき」という仮名があり、受験生の方は「つちいっき」で覚えておいた方が無難でしょう。

今回は

正長の土一揆

・播磨の土一揆

・嘉吉の土一揆

と併せて見て参ります。

 

「土地を返してくれ」がなぜか通る時代

あらためまして土一揆とは、農民や地侍、馬借など、比較的身分の低い一般人が起こした一揆(暴動)のことです。

”暴動”というといかにも穏やかならぬ雰囲気ですが、必ずしもそうでないケースもあります。

室町時代の中期以降、庶民の自治・連帯意識が強まり、何かあったときに団結して抗議活動が行われるようになりました。

現代に置き換えると「一般のサラリーマンや主婦、学生などが、地域ごとにまとまってデモを起こした」みたいな感じですかね。

一揆の場合は、近隣の国に波及して数カ国規模になることもありました。

土一揆の目的は、ほとんどが支配者層に徳政(借金チャラ)を求めることです。

これは当時の社会通念が絡んでいます。

この時代は「土地を売買した後でも、元の所有者の権利は失われない」とか「機会があれば元の持ち主に返すべきだ」という概念がありました。

現代では「売った後は買い手のものだから、買い手がどうしようと問題ない」ですから、なんとも奇妙な感じがしますね。

どこからそういう考えが出てきたのかよくわかりませんが、もしかしたら奈良時代の墾田永年私財法(743年)などの影響なのかもしれません。

先祖代々同じ土地を受け継いできた家であれば、

「俺の家の土地は大昔にお偉いさんからもらったんだから、(お偉いさんより身分が低い)売り主はいつか俺に返すのが当たり前」

という考えが出てきてもおかしくはない……ですかね。

そういうわけで、生活苦の他に、天皇や将軍の代替わりなどの慶事に際して「このめでたい日に、俺らの土地も返してくれてもいいんじゃない?^^」みたいなノリで土一揆が起きることがありました。

そのうちスパンが短くなり、年間行事みたいになっていったのは、為政者からすれば勘弁して……という話でしょう。

多少なりとも死傷者は出たでしょうから、物騒な話です。

本筋とは関係ない話ですけれども、戦国時代あたりの日本人(庶民)は「戦闘民族かよ」と言いたくなるような事件が度々あります。

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幕府「1割納めれば後は知らんよ」

室町幕府も土一揆を取り締まろうとはしました。

しかし、幕府自体の力も衰えており、スムーズな鎮圧は難しい状態。

取締りを命じられた守護大名家にしたって、長年の京都滞在で生活費に困っていた下級武士が多く、中には一揆側につく者もいたほどです。

応仁の乱】直前には、そういった兵によって蔵が荒らされ「私徳政」とのたまう者もいたといいます。

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幕府でも力で押さえつけられないことを悟ってか。

時代が進むと「分一徳政令」という法律を作って一揆をなだめようとしています。

これは、紛争の元となった債権の”一”割を幕府に納めれば、残りの九割を当事者の自由にして良いというものです。

逆側から見ると、「幕府はもう一揆が起きたら収拾しないよ!」と宣言したようなもの、ともとれまして……。

困ったのは、寺院や土倉(質屋)のように、一揆で襲われる側。

自衛のため、彼らは自ら兵を雇うようになりました。無論、その前から武装してるところもありますけれど。

ちなみに土一揆の「土」は、当時、農民・百姓のことを「土民」と呼んでいたことに由来します。

地侍や馬借の立場はどうなの?という感じですが、主軸が農民・百姓だったからでしょう。

人口比率的にも多かったでしょうし。

もしくは、朝廷で身分の低い者=御殿に上がれない者のことを「地下人(じげにん)」や「地下(じげ)」と呼ぶので、「土に近い場所で暮らしている者ども」という意味でひっくるめられたのかもしれません。

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