足利直義

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

室町幕府樹立の功労者・足利直義の生涯~最期は兄・尊氏と衝突してからの不審死

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尊氏の補佐

その後、西へ敗走する新田軍を追いかける形で足利軍が上洛。

さらにその背後から、奥州の陸奥将軍府にいた北畠顕家が追走……という、壮大過ぎる追いかけっこが繰り広げられました。

北畠顕家/wikipediaより引用

そして京都周辺で

足利軍
vs
新田・北畠・楠木軍

という構図の戦が複数回行われ、最終的に足利軍は近畿からさらに西へ逃れることになります。

そして九州で体制を立て直すことに成功し、再び近畿へ進出すると、【湊川の戦い】で楠木正成に勝利し、京都へ入って光明天皇を即位させ、室町幕府を創設しました。

楠木正成/wikipediaより引用

これらを受けて後醍醐天皇は退位せざるを得なくなりますが、三種の神器を譲り渡したにもかかわらず、

「あれは偽物です!!」

と言い張り、吉野へ逃げ、南朝を創設します。

南北朝時代の始まりです。

 


二頭政治

足利尊氏としては「後醍醐天皇に手荒なことをしたくない」という路線で一貫していました。

足利直義もそれに強く逆らうことはできず、当面は幕府の体制を整えることを優先。

その結果、大まかに分けて

・軍事指揮や恩賞の配分については尊氏

・民事裁判や恩賞の通達については直義

といった担当が決められます。

当時もこの関係は「両将軍」と呼ばれており、問題ないと見なされていたようです。

実際に処理する量としては直義のほうが多かったので、近年では「二頭政治だと均等に見えるからちょっと違うのでは?」という見方も出てきていますね。

この担当区分は二人がそれぞれの得意分野や性格と合致しており、そのため初期の室町幕府は順調な滑り出しと思われました。

しかし、時間が経つにつれて少しずつほころびが見えてきます。

それは主に、直義が下した判決が原因でした。

当時の裁判は、各地の荘園領主である寺社や公家の訴えが多く、彼らの権利を重んじた直義は原告を勝たせることが多かったとされます。

となれば、実力で土地を得ようとした新興武士たちに反感を持たれることに繋がってしまう。

直義としては「朝廷に認められた領主に土地を返すのは当たり前」

新興武士からすれば「力で土地を得て何が悪い」

それぞれの”前提”が食い違っていたために溝が深まることになってしまうのです。

一応、直義としては武士たちの軍功に対して感状を出してはいましが、実利が伴わなければ意味がないわけで、評判は悪くなっていきます。

 


高兄弟と新興武士たち

問題は他にもありました。

高師直と高師泰の高兄弟です。

彼らには、いささか手段を選ばない一面があり、地域によってはかなり乱暴な手段も使っていました。

そのため高兄弟に反発する人が直義に味方したり、後々そのことを聞いた足利直冬が「高兄弟を今のうちに排除しないと禍根になる」と考え、そのように動こうとしたりといった余波も起きています。

こうした状況に対し足利尊氏はどうしたか?

そもそも建武三年(1336年)8月に清水寺に対し

「この世は夢幻なので出家して生まれ変わりたい」

「今生の幸せは直義に全て与えていただきたい」

という願文を出しており、直義のやり方にあまり異論を唱えていなかったように窺えます。

もしかしたら、この時点で直義に家督を譲り、本気で隠居するつもりだったのかもしれませんね。直義になかなか息子が生まれないため、二の足を踏んでいたのか。

この時点では尊氏の嫡子・義詮はまだ6歳であり、無事に育ち上がるかどうかもわかりませんでしたし。

さらに直義は、当時の流行である「婆娑羅(ばさら)」を強く嫌っていたことでも、新興武士たちからの反感を買っていました。

婆娑羅とは単純にいえば華美な服装のこと。

当時で言えば、佐々木道誉などが婆娑羅大名としてその名を知られますね。

佐々木道誉/wikipediaより引用

まだ世の中が落ち着いたとはいい難い状況で、着飾るために浪費するスタイルが直義の主義に反したのでしょう。

そして、そんな直義に反感を持つ新興武士たちが強く支持していたのが高兄弟でした。

この危険な構図は、やがて直義派vs高兄弟派という形になって浮上していきます。

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