足利直義

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

室町幕府樹立の功労者・足利直義の生涯~最期は兄・尊氏と衝突してからの不審死

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待望の実子誕生

1340年代には、足利直義にとってもう一つ大きな出来事もありました。

貞和三年(1347年)に初めての子・如意王が生まれたのです。

実は直義は、ずっと前に結婚していたものの、長年子供に恵まれていませんでした。

夫婦二人とも子供ができにくい体質だったのでしょうか。側室も迎えていません。

直義の性格からすると「無闇に女を迎えてその実家からアレコレ言われたら争いのもとになる」といった考えがあったのかもしれません。

「この息子誕生により、直義に野心が芽生え、観応の擾乱の遠因となった」

そんな見方もありますが、ここではその説は採らないことにします。

というのも、如意王の誕生より少し前くらいの時期に、直義は兄の庶子・足利直冬を養子にしているのです。

足利直冬/wikipediaより引用

如意王可愛さに野心が現れたのであれば、この後から直冬への対応が冷たくなってもおかしくはありません。

しかし直義は直冬にあれこれ気を遣い、身が立つようにしてやっています。

「将来如意王の領袖にするため」という見方もできますが、観応の擾乱の原因になるほどの野心があったのなら、直冬を切り捨てるほうが有り得そうに思えます。

その辺は本人のみぞ知るところですね。

 


出家と養子・直冬

さて、話を政治の場面に戻しましょう。

貞和五年(1349年)、ついに高兄弟との対立が表面化した足利直義は行動に出ます。

閏6月に兄弟を訴え、まず高師直が執事を罷免されました。

しかし師直もそれで黙っているはずはなく、同年8月、直義が逃げ込んだ尊氏邸を兵を使って包囲し、逆に直義を政務から追い出します。

そして同年12月に直義は夢窓疎石のもとで出家し、

夢窓疎石/wikipediaより引用

完全に政務から引くような動きを見せました……が、これに怒ったのがこのころ九州で自分の勢力を作っていた足利直冬です。

彼は「両将軍(尊氏と直義)の命令」という名目で、九州各地の武士に服属を求めていました。

しかし実父とは不仲な状態が続いていたので、叔父にして義父でもある直義が引退してしまうと非常に困ったことになります。

各地域にいる直義方の武士たちも、直義の失脚には当然不服。

彼らの動きを受けてか、直義は観応元年(1350年)10月に大和で挙兵すると、一時的に南朝と和睦を結び、近江で足利尊氏・高師直たちと激突します。

尊氏としては弟の力を失うのは惜しく、直義の求める「高兄弟の更迭」を受け入れました。

しかしその帰途で以前から高師直らに恨みを抱いていた直義方の武士によって、高一族は皆殺しにされてしまいます。

さらに観応二年(1351年)2月には、鍾愛の一粒種・如意王が世を去っていまいました。

これが直義の政治や軍事面における動きにどこまで影響したのか?

やはりその点については明確なことは不明ながら、この講和の後に足利義詮との関係がうまく行かなかったこともあり、直義は自ら政治から退くことを決意します。

そして自ら尊氏に申し出て、再度引退することとなりました。

 


謎の最期

息子の死を悼んでの引退であれば、そのまま菩提を弔って余生を送る道もあったでしょう。

しかし足利直義は何を思ったのか。

この後、北陸の桃井直常らを頼って落ち延び、各地で転戦しながら今度は鎌倉へ出向き、足利尊氏への反抗を明らかにするのです。

正直なところ、何をしたいのか全くわかりません。事ここに至って兄の悪いところに似なくてもいいような……。

当然、尊氏としても黙っていられるわけもありません。

観応三年(1352年)2月、駿河・相模などで尊氏軍と再度激突。

足利直義と足利尊氏/wikipediaより引用

結果は直義の敗北であり、鎌倉に捕えられると、それから間もない文和元年(1352年)2月26日に亡くなりました。

あまりにも急な展開だったため、当時から毒殺説も根強く存在しています。

近年では「直義の死因は自然死あるいは病死だ」と見る方も多く、もしそうであれば前年からの長距離移動に体が耐えられなかったのでしょうか。

当時の直義は満45歳です。

決して若くはないけれど、自然死するには若干早いようにも見えますし、旧暦2月末は新暦4月中旬ですので風邪やインフルエンザで高熱を出して……というのも可能性が低そう。

となると、キーポイントになるのは

・直義の没日が、高兄弟のちょうど一年後である

・直義が亡くなった場所が鎌倉である

という二点かもしれません。

高兄弟や護良親王の怨霊を封じるための人柱として、尊氏が直義を差し出した……というのも、彼の信心深さからするとあり得る話ではないでしょうか。

伝足利直義墓(鎌倉市)/wikipediaより引用

その裏付けとまではいきませんが、室町幕府ではこの後数十年にわたって直義の供養を繰り返しています。

直義の祟りを相当恐れていたのか。朝廷からも従二位→正二位と贈位が行われ、さらに「大倉宮」の神号まで与えられています。

つまり直義の死について多くの人が不審に思い、恐れていた可能性が高いわけです。

妄想の範疇を出ない話ではありますが、当時の呪詛や祟りが本気で恐れられていたことは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』や『光る君へ』からもご理解いただけるでしょう。

いずれにせよ後味のよくない最期となってしまいました。


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長月 七紀・記

【参考】
森茂暁『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想 (角川選書)』(→amazon
峰岸純夫『足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー) (歴史文化ライブラリー 272)』(→amazon
清水克行『足利尊氏と関東 (人をあるく)』(→amazon
国史大辞典
世界大百科事典

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