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【源頼政】
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以仁王と共に挙兵
そのころ都では【保元の乱】で手を結んでいた後白河法皇と平清盛の間に不和が生じていました。
治承元年(1177年)に【鹿ケ谷の陰謀】が起き、清盛は院政を停止。
法皇を幽閉するという【治承三年の政変】を起こします。
そして翌治承4年(1180年)には高倉天皇を譲位させ、まだ幼い安徳天皇を即位させました。
安徳天皇の母は清盛の娘・徳子であり、清盛にとっては外孫にあたります。ついに平家の権勢は頂点に達したのです。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用
この即位の陰で不満を募らせていたのが後白河法皇の第三皇子・以仁王でした。
冷遇されていながら他の皇子のように出家することもなく、即位する望みを繋いでいた。それが平家のせいで完全に断たれてしまった!
飢饉の影響もあり、世間には平家への不満が渦巻いています。
坂東はじめ地方には、源義朝の縁者たちがいる。寺社勢力も反発している。そして後白河法皇を敵に回したことで、京都の朝廷にも不満がくすぶりはじめた。
気がつけば平家は四面楚歌でした。
そんな中、以仁王は諸国の源氏に対して挙兵を呼びかけます。

以仁王/wikipediaより引用
そして、その隣にいたのが源氏の源頼政だったのです。
なぜ頼政は挙兵に賛同したのか?
動機はさまざまな物語で語られながらも確定はできません。
『鎌倉殿の13人』で演じた品川徹さんは「平家への不満があったのではないか」とインタビューで語っておりました。
東国の源氏は決起せよ
源頼政は当時ならば生きていることそのものが稀である古希、つまりは70歳を過ぎていました。
病気がちであり、世を退き、歌を詠み、平穏な余生を過ごしているように思えたのに、そんな頼政が挙兵するとは到底考えられない……。
源頼政と以仁王が抱いていた計略の内容はこうでした。
諸国の平氏に不満を持つもの、こと東国の源氏は決起せよ!
上洛することにより、京洛周辺の反平氏も立ち上がる!
そのためには京楽周辺の寺社勢力も味方につけるべし――。
しかし挙兵計画は事前に発覚し、以仁王は検非違使に追われてしまいます。
頼政は自邸を焼き払い退路を断つと、以仁王が逃れた園城寺へ向かい合流を果たしました。
残念ながら計画はあまりに無謀でした。
全国各地の源氏といえどすぐに集まるわけもない。
京都に近い寺社勢力の僧兵は去就が不明。

興福寺の僧兵/wikipediaより引用
平家に味方するわけでもない。さりとて、以仁王につくわけでもない。そんな曖昧な態度をとったのです。
以仁王を逃がすべく平等院に立て籠もり
やむをえず以仁王と頼政は南都へ向かいます。
その途中、以仁王は落馬するほど疲れ果ててしまい、やむをえず宇治平等院で休息を取ることにしました。
平家にそこで追いつかれてしまいます。
頼政軍は宇治川の橋を落として対抗するものの、衆寡敵せずとはこのこと。
以仁王は女装して脱出し、頼政は平等院に立て篭もって以仁王の逃亡を助けるべく、時間稼ぎをします。
そして頼政の子や孫である仲綱、兼綱、宗綱らが次々と討たれる中、己も覚悟の自刃を遂げたのでした。

辞世の句を詠む頼政(月岡芳年画)/wikipedia
頼政は歌人らしく、西へ向かい、高らかに十念を唱えると、辞世をこう詠みました。
埋木の 花咲く事も なかりしに 身のなる果は あはれなりける
もはや年老いた我が身、花が咲くこともなかっただろう。実るどころか、こんな結末になるとは。
そして結局、以仁王も追討軍に追いつかれ、討たれたのでした。
源頼政と以仁王の挙兵は、結果からすればあまりに杜撰で呆気なく終わってしまいました。
平家はさらに味方しようとしていた南都を焼き討ちにし、禍根を絶ったかのように思えます。

源頼政公自刃の地である扇の芝/wikipediaより引用
しかし遠い坂東の地で、源頼朝と坂東武者たちが立ち上がりました。
頼朝は【石橋山の戦い】で大敗を喫するものの、房総半島でしぶとく立ち上がり、鎌倉入りを果たすとその勢いは日本中を巻き込んでゆきます。
治承4年(1180年)における以仁王と頼政の挙兵から5年後の元暦2年(1185年)3月、ついに平家は【壇ノ浦の戦い】で滅亡しました。
源頼政は、敗れながらも源氏に襷を繋ぎ、武家政権の成立という日本史の変化を先んじた人物でした。
古希を過ぎて花を咲かせようとし、散ったかのように見える源頼政。
その身が蒔いた種は芽吹き、やがて大きな実をつけたのです。

平等院最勝院にある源頼政の墓/wikipediaより引用
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
多賀宗隼『源頼政(人物叢書)』(→amazon)
他