信長の野望

『信長の野望・大志 with パワーアップキット』発売コラボ・半兵衛の読史

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豊臣秀吉の側に在りて、常に私利私欲のない軍師像として描かれる。
天才・竹中半兵衛

軍人ではない文官が作戦を立て武将を動かす――“軍師”という指揮官は、実は日本に存在したことはなかったが、それでも半兵衛が今なおそのシンボルとして崇拝されるのはナゼなのか。

1544年(天文13年)、美濃国にて生誕。
竹中半兵衛の家は、父の代では土岐氏、その後、台頭した斎藤龍興に仕えた。

そんな半兵衛の名を大いに高めたのは、永禄7年(1564年)のこと。

いわゆる【稲葉山城乗っ取り事件】である。

このころ当主の龍興は、織田信長相手に意気阻喪する一方であり、重臣・美濃三人衆や、半兵衛の諫言に耳を傾けなくなっていた。

そこで半兵衛が、斎藤家の危難を救うため、賭けに出る。
難攻不落として知られる稲葉山城(後の岐阜城)を僅かな手勢で制圧したのだ。

鮮やかすぎる手口については、あくまで【脚色】だとする見方も根強いが、いずれにせよ半兵衛の優れた智謀を示す話には違いない。

半兵衛は、怒り狂った龍興の反撃に遭うと、城と共に主君を見限り、この後、浅井長政の元へ。
一年後には隠棲の日々を送るようになった。

永禄10年(1567年)に美濃攻略を成し遂げた織田信長。

その後、裏切りなどにあった浅井長政攻略のため、信長は半兵衛を自らの陣営にスカウトした。
「三顧の礼」で迎え入れたと喧伝されることもあるが、ここは冷静に信長の狙いを見るほうが良さそうだ。

信長の願いは、あくまで浅井氏攻略。
そのための協力者探しをしていたら、延長線上に半兵衛がいたのであり、この段階で彼を【天才軍師】と見ていたのは、さすがに厳しい。

半兵衛は、信長配下の羽柴秀吉(豊臣秀吉)のもとで、天正6年(1578年)から中国攻略に尽力。
このころから黒田官兵衛と懇意になり、秀吉配下の「両兵衛」と称されることとなる。

軍師的活躍は後世の潤色があるが、彼が優秀であり、秀吉から重用されたことは間違いないだろう。

そんな半兵衛・官兵衛の両兵衛に、苦難がふりかかる。

信長に叛旗を翻した荒木村重説得に向かい、官兵衛が有岡城に幽閉されてしまったのだ。
官兵衛までもが自分を裏切った!と激怒した信長は、その子である松寿丸(のちの長政)の首を差しだすよう、命を下した。

半兵衛は、一計を練った。
自ら危険を冒して偽首を用意し、松寿丸は家臣のもとに匿ったのだ。

さして利にならない――むしろ主君を騙すリスクしかない。
軍師と呼ぶにふさわしい行動は、程なくして実る。

幽閉から約1年後、荒木村重の戦線離脱によって官兵衛が牢獄から解放されたのだ。

この一件、秀吉もおそらく陰で承知していたと考える方が自然だが、いずれにせよ半兵衛の行為が黒田家の跡取りを救った事実に変わりはない。

半兵衛という知将には勇義があった。

稲葉山城といい、松寿丸救出といい。
目の前で起こりつつある悪事を見逃さず、自らを危険を受け入れることも厭わない。
そんな人物だった。

そして松寿丸救出の翌1579年(天正7年)4月。
半兵衛は、播磨三木城の包囲中に病死を遂げた。

その後の竹中家は、江戸期に徳川家の旗本として存続。
子孫は後に「竹中流軍学」を起こしている。

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【提供】信長の野望・大志 with パワーアップキット

文:小檜山青

【参考】
国史大辞典
戦国時代人物事典 歴史群像編集部 (編集)
全国国衆ガイド

 



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