三国志演義

三国時代の魏呉蜀/photo by Yeu Ninje /wikipediaより引用

三国志

『三国志演義』は正史『三国志』と何が違う 呂布は中国で美男子?

中国・三国時代の物語といえば三国志

本場のみならず日本や多くの国々で親しまれ、たくさんの作品が生まれてきました。

しかし何故これほどまでに三国時代だけが人気なのか?

確かに最近の日本では、漫画『キングダム』の影響で春秋戦国時代にも注目が集まっておりますが、中国における三国時代のエンタメ化は非常に長い歴史を持っており、時代を経るにつれブラッシュアップされ、そして現在の人気へと至ります。

そうした作品の中でも、とりわけ大きな存在感を放っているのは、やっぱり『三国志演義』。

もはや『三国志』=『三国志演義』とさえ思われている本作品は、一体どのようにして生まれたのでしょうか。

 


もとは盛り場で講釈師の語る物語だった

三国時代の記録は、陳寿の正史『三国志』から始まります。

正史ですので淡々とした記述であり、読み物としてはハードルの高いものです。

庶民が親しんだのは正史ではなく、盛り場で講釈師の語る三国時代の物語でした。「説三分」と呼ばれたこのジャンル、既に唐の時代(7-10世紀)には高い人気を博しています。

中国史において動乱の時代はいくつもあり、その中で三国時代は”物語を描く上では非常にバランスのよい”材料でした。

春秋戦国時代や五代十国のように、多くの国に分裂した状態ですと、攻防史があまりに細かくて、読者もなかなか没頭できないものです。

その点、三分裂というのは、極めてちょうどよい。

もちろん同時代を生きる人にとって、国の分裂は地獄そのものでもありましたが、後世の者が楽しむ物語としてはバツグンの素材。

早い話、感情移入しやすいんですね。

とりわけ庶民の間で人気となったのは、もはや説明不要の劉備(=蜀)です。

講釈師の話を熱心に聞く子供たちは、劉備が負けたと聞くと泣き出し、曹操が負けたと聞くと大喜びしていた、と伝わります。

※陳寿は魏を正統としており、歴史的にもそれが正しいとされてきたのですが……

 


羅貫中「そうだ、もっと洗練した物語にしよう!」

元代(13-14世紀)は、中国文学史において重要な時代です。

モンゴル人の王朝である元では、漢民族の士大夫があまり重用されませんでした。

仕官しそこねた、あるいは仕官を敢えてしなかった文人たちは、もてあました才能を様々なジャンルにおいて発揮し始めます。

小説や劇も、そのひとつ。

そんな文人の中に、羅貫中がいました。

ここで注意したいのは、彼は一から『三国志演義』を作り上げたのではなく、あくまで”ブラッシュアップした”ということです。

それまでの三国志物語は、楽しいけれど、なんだか雑。

盛り場での語りをそのままノベライズしたような『三国志平話』といった作品があり、あくまでその場を盛り上げるネタだったので、話の展開が荒く、荒唐無稽な設定も見られました。

「よっしゃ。これをもっと洗練して、高度な作品にしよう!」

そう考えた羅貫中が完成させたのが『三国志演義』なのです。

物語を進める上でまず彼は、プロローグにあった「輪廻転生にまつわる部分」をカット。

おなじみ劉備・関羽・張飛の「桃園結議」から物語をスタートさせます。

ちなみに横山光輝三国志など、一部日本の作品では、桃園イベントの前に「劉備がお茶を買う」シーンが入ります。

実はこれ、吉川英治による創作部分でして、本場の『演義』にもない場面です。

かつて『演義』の日本語訳を読んだ人が、翻訳者に「茶を買う場面がないぞ!」とクレームを入れたことがあったそうですが、あの場面は日本独自のものだったのですね。

 


劉備・関羽・張飛に与えられたキャラ設定

羅貫中は無駄を削り、洗練性を高める過程で、各人のキャラクター性も変更させました。

「三国志の人物といえばこういう性格!」

そう広く知られているものは、正史ではなく、講釈師がアレンジして、さらに羅貫中が洗練させたものです。

例えば『演義』で張飛が横暴な督郵を鞭打つ場面。

これは正史では劉備がやったことでした。

『演義』ではアクション担当の張飛が、劉備の代わりに鞭を打ち、劉備は理性的に止めることで、各人のキャラクター性に整合性を持たせているのです。

ざっと3名の特徴を見てみましょう。

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