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宝塚歌劇団の歴史をスッキリ解説!一三の魂はタカラジェンヌに引き継がれ

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スラリとした高身長に鼻筋スッキリ、目は切れ長。
ひとたび歌えば力強い美声で、見る者の心を奪う――。

今や、テレビで見ない日はない宝塚出身の女優さん。彼女らが「宝塚歌劇団」で研鑽に励んだことは、日本人なら説明するまでもないでしょう。

しかし、
「宝塚歌劇団を作ったのは誰か?」
と、問われたら、即答できる方はなかなかいないと思います。

答えは小林一三いちぞう
阪急グループの創業者であり、関西産業界にとってなくてはならない存在の彼は、東京へも進出して電鉄会社(東急グループ)や東京宝塚をはじめ多種多様の事業に携わるなど、西の渋沢栄一とも呼べるべき偉大な経営者でありました。

彼の詳細は以下の記事に譲るとして、本稿では、一三が精魂込めて作り上げた、日本エンタメ界の最高峰・宝塚歌劇団の歴史をスッキリ整理してみたいと思います。

 

路線の最終駅・宝塚をリゾート地にしよう

1910年代――。
第一次世界大戦前後、世界は新しい文化芸術に接するようになっていきました。

レコード、ラジオといった新たな技術。
モダニズム文化と呼ばれる芸術。
その波は日本にも押し寄せ、今までとは違う娯楽が求められるようになっていきます。

その頃、箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)創始者である小林一三は、路線の乗客増加を目指していました。
そのために、路線そばの土地を買い占め、住宅地として売り出すという手段を用いていました。

しかし、それではすぐに利益が出るわけでもありません。
手っ取り早く収益を上げるには、娯楽施設を作るのが良い!と、小林は考えました。

そこで思いついたのが「梅田~宝塚」の路線で、最終駅の宝塚を一大リゾート地にする構想でした。

宝塚には温泉があります。
この温泉に、動物園や劇場を備えたまったく新しいリゾートを作り上げようとしたのです。

しかし、そうして作られた巨大なプールや動物園は、思うように客足は伸びず、一三には、新たな一手が求められるようになりました。

 

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ただの遊興ではない! 新たな文化芸術だ

「プールを閉鎖して劇場にして、新たなエンターテイメントを作ろう!」

小林が次に考えたのは、少女合唱団でした。
なんだか現代人にはピンと来ない発想ですが、当時は、三越少年音楽隊や白木屋少女音楽隊が人気を博していた頃です。

かくして1913年(大正2年)、宝塚歌劇団の前身となる「宝塚唱歌隊」が結成されます(同年に宝塚少女歌劇養成会へ改称)。

もしもこの「宝塚唱歌隊」が、少女たちが歌うだけの存在、つまり目新しさがなければ、おそらくや歴史の中で埋没していたことでしょう。
小林は、既存の芸術文化だけに満足することなく、新たな決意を抱いておりました。

「上質で全く新しい歌劇を生み出さねばならない」

これこそが、関西産業界ひいては日本のエンタメ業界に大きな寄与をした彼ゆえのアイデアと、後の実行力に繋がります。

単に利益をあげるための遊興ではない、もっと高い次元での芸術・文化。
言わば「ホンモノ」を求めた小林は、指導者を欧米に派遣し、本場の空気を学ばせました。
かなりの費用でしたが、小林は目先の利益へのこだわりは捨てておりました。

こうして歌うだけではなく、劇を演じる歌劇団を結成。最初の演目は、桃太郎を題材とした『ドンブラコ』(1914年)でした。

なじみ深い童謡を取り入れたものでした。

1914年に第1回公演の行われた『宝塚少女歌劇団』ドンブラコ/wikipediaより引用

 

画期的なシステム、ファンとの距離を大切に

続けて小林は、6年後の1919年に「宝塚音楽歌劇学校」を設立。
現在の「学校法人 宝塚音楽学校(→link)」の前身であり、学校のような授業、評価・選抜システムを取り入れることで、より質の高い劇団員教育を行えるようにします。

学校認可と同時期に『歌劇(→link)』という機関誌も創刊されました。
現在まで続くこの機関誌は、創設当初より劇団がファンとの交流を大事にしてきたことを表すものでもあります。

また、1918年という年は東京への進出が始まった時期でもありました。
当時は西洋からオペラが日本に入ってきており、1917年(大正6)には「浅草オペラ」が上演されていました。

浅草オペラ『天国と地獄』/wikipediaより引用

ブームに乗るのであれば、宝塚も欧米化されても自然なことです。

しかし小林は、欧米の流行をただ真似たものではなく、日本独自の国民的な演劇、「国民劇」を作り出すことを目指していました。
欧米化とは距離を置き、独自路線を歩むこととなったのは、小林の考えを反映してのことです。

そうはいっても、いつまでも桃太郎だけを演じているわけにもゆきません。

大劇場にふさわしい格調高いテーマを求められ、1927年(昭和2)には『モン・パリ ~吾が巴里よ!~』が上演されます。
劇団初の、記念すべき初のレビューでした。

 

この公演の主題歌「うるわしの思い出モン・パリ」もヒット。

宝塚少女歌劇団の名声を世に高めます。

 

更にラジオ黎明期から、宝塚歌劇団はメディアミックス戦略を展開しておりました。

ラジオから流れる歌劇のテーマ曲は、人々にとってなじみ深いものとなったのです。

 

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戦火のもとで、歌劇団員たちは全国各地の慰問へ

1934年(昭和9年)、東京公演でも利益が見込めるようになり、東京宝塚劇場(→link)をオープン。
このころになると国内のみならず、海外進出も行われるようになってゆきます。

日本が戦争へ向かう中、1938年(昭和13年)にはヨーロッパ、翌年にはアメリカで公演を開催。
こうした海外公演は華やかなものでしたが、華やかな歌劇の世界にも、戦争の影が忍び寄ってきます。

1940年(昭和15年)、宝塚少女歌劇団は「宝塚歌劇団」に改称しました。
同時期になると、タイトルや題材から外来のものが消え、団員は慰問に駆り出されるようになります。

満州で公演が行われ、内容も軍国主義的なものとなってゆくのでした。
戦争が激化すると、劇場も接収され、劇団員は勤労活動や全国各地での慰問を続けることになりました。

華やかな歌劇の世界は、遠いものとなったのです。

 

敗戦間もない1946年に公演を再開させる

敗戦を迎えて、宝塚歌劇団はすぐさま復興を目指しました。
団員たちはすぐに自主練習を開始するも、進駐軍に建物を接収されてしまうという困難もありました。

それでも、敗戦の翌年の1946年(昭和21年)には、公演を再開します。

ただ再開するだけではありません。
ラジオ、映画、テレビ……さらなるメディアと組んだ戦略が求められました。
元からこうしたメディアミックスには強かった宝塚です。さらなる飛躍を遂げました。

同時に演目もバリエーションを増やしました。
・海外公演
・皇族による鑑賞
・様々な受賞歴等
宝塚歌劇団をめぐる様々な話題は尽きることがありません。

60年代末からはミュージカル作品を上映し、常に変化と進歩を求め、たゆまぬ努力が続きます。

 

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1974年 日本に『ベルばら』ブーム到来!

そして1974年(昭和49年)、日本全国で大ブームとなる一大革命を起こします。

『ベルサイユのばら』の公演の大ヒットです。

観劇経験のない方も、一度ぐらいは、その名を聞いたことがおありでしょう。
見目麗しきタカラジェンヌが、舞台の上から強烈な眼力ビームを観客へと投げかける、あの印象的すぎるシーンとキャラクター。
アラフォー世代より上の方にとっては「宝塚=ベルばら」と言っても過言ではないハズです。

もちろん彼女らの活躍はそれにとどまりません。
以降、象徴的なものを取り上げますと……。

1980年(昭和55年)には、NHK連続テレビ小説(いわゆる朝ドラ)で『虹を織る』が放映されました。
本作はヒロインが宝塚歌劇団員という設定。更に知名度は高まりました。

80年代、90年代になると、海外公演もますます増加。
劇場の建て替えも行われ、ハード面でも充実が図られます。

そして1996年(平成8年)には「雪組」の『エリザベート』が大ヒット演目となり、1998年(平成10年)には最も新しい組「宙組」も発足。
2000年(平成12)には専科制度が発足しました。

誕生から百年を経ても、新たな歩みを止めず、常に進化し続けているのです。

今日も宝塚歌劇団は、小林一三が目指した国民劇として歩み続けていますこれからもきらびやかな舞台で、ファンたちを楽しませることでしょう。

【編集部注】小林一三さんは、NHK朝ドラ『わろてんか』で高橋一生さんが演じる伊能栞のモデルとされております。
同ドラマの主人公藤岡てんは、吉本興業の創業者・吉本せいさんがモデルであり、小林一三さんと合わせて関西エンタメ界を幅広く描いてくれる……といいなぁと考えております。蛇足、失礼いたしました。

文:小檜山青

【参考文献】




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