べらぼう感想あらすじレビュー

背景は葛飾応為『吉原格子先之図』/wikipediaより引用

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『べらぼう』感想あらすじレビュー第11回富本、仁義の馬面 その侠気こそ江戸の気風

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『べらぼう』感想あらすじレビュー第11回富本、仁義の馬面
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馬面太夫と門之助を待ち受けていたのは

向島に馬面太夫と門之助がいます。

この二人の美男ぶりといったら、まさに絵から抜け出てきたよう。

浮世絵のジャンルといえば、美人画が有名です。しかしこれも研究者が男性中心だったからかもしれませんぜ。

蔦重より時代がくだって、浮世絵の女人気が高まると美男絵の需要が生じてきます。役者でなく、火消しや道ゆくイケメン絵も出てくる。

立派な眉毛に、すっと通った鼻筋。そういうイケメンを思わせる二人なんですね。

豊原国周『坂東彦三郎』/wikipediaより引用

なぜこの二人がここにいるのか?というと、かつて吉原に通ったころの女郎が身請けされ、「一目会いたい」と馬面太夫を呼び出したんだとか。

身請け先は酒屋で、門之助も一緒に会いたいそうなので、うまくいけばご贔屓を増やせると語る二人です。

しかし二人が向かう先にいたのは、蔦重、りつ、大文字屋でした。

「謀られました」

彼らの顔を見た瞬間に、騙されたことに気がつく馬面太夫。といってもそこは鎌倉時代じゃねえんで、謀られても殺されやしません。

今年の大河は教育に悪いと言われますが『鎌倉殿の13人』の方がよほどヤバかったと改めて思いやすぜ。

二人がすぐに踵を返そうとすると、りつが丁寧に謝り、差配の落ち度、同じ女郎屋として恥ずかしく思っていると認めます。

りつがそう言うのが重要で、彼女は馬面太夫にキュンキュンときめいていますんで、声音に艶が滲んでいるんですね。そこに嘘はない。

「あんたが謝ることではないでしょう。では」

それでも馬面太夫が出て行こうとすると、蔦重が続けます。

「お待ちください。身請けうんぬんは偽りにございますが、太夫と門之助様に会いたがってる者がおるのは、まことにございます。どうか、会ってやってはくださいませんか?」

そして襖を開けると、そこには吉原の女郎たちがずらりといました。

「こりゃ吉原の妓(こ)たち……かい?」

「へえ、是非、お二方にお会いしたい、詫びも含めてもてなしたいと手を挙げたものを、大門の外に連れてまいりました」

「さあさあ、水も滴るいい男が二人。皆、思う存分にもてなすぞ!」

「あい!」

大文字屋がそういうと、女郎たちはそう返します。

 


こんな涙相手に、どんな男が断れるのか?

かくして他愛もない目隠し鬼が始まります。

「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」が『忠臣蔵』由来で「由良さんこちら、手の鳴る方へ」となっているのがご愛嬌。

馬面太夫は生い立ちを語っているようで、かをりが「13でそんな大舞台に?」と尋ねています。

「たいしたことではない。お前さんだって立派につとめてるではないか」

「買い被りしなんすな」

そう語り合う二人。自分で生きる道を決めることができない者同士ともいえます。

楽しそうな時間はあっという間に流れていく。

そして大文字屋が手を打ち、お開きだと告げます。

もうちょっとだけ!とかをりはせがみますが、夜見世もあるし流石に駄目だとりつがダメ出し。

すると蔦重が最後に、ほんの少しでいいので女郎に富本を聞かせて欲しいと馬面太夫に願い出ました。

「いいかい?」

馬面太夫が門之助に聞くと……。

「あたぼうよ! やらいでか!」

りつと大文字屋が三味線を弾き、始まりました。

声と芸に没頭しているうちに、女郎の目から涙がこぼれ落ちます。夜見世の赤い籬(まがき)の奥にいる女郎の姿が重ねられ、その切なさがあらわになる。

「こんな座興で……」

女郎たちの啜り泣く声を聞き、馬面太夫が門之助が感極まったように驚いています。

「慣れてねえんですよ」

そんな二人に蔦重が語り始めます。

「吉原の女郎は、芝居を見に行けねえもんで。座敷芸で芝居や浄瑠璃に親しむもんの幼い頃より廓で育ち、まことの芝居を見たことない者がほとんど。この江戸にいながら一度も芝居を見ず、この世に別れを告げる者もおります」

動揺している馬面太夫の前に座り直し、蔦重はこう願います。

「吉原には、太夫のお声を聞きたい女郎が、千も二千もおります。救われる女がおります。どうか……女郎たちのためにも、祭りで、その声を響かせてはくださいませんか!」

答えは……。

「やろうじゃねえか! こんな涙見せられて、断れる男が、どこにいる。なあ?」

「ああ」

待ってましたとばかりに即答する馬面太夫。門之助もそう返します。

「ありがとうございます!」

よかったねえ。ハッピーエンドの落語を聴き終えたみてえな涙が毎回ちょちょぎれんぜ! 感動したッ、いよっ!

江戸っ子が、すぐに「いよっ!」と言う気持ちが理解できた気がする。感動したとき、心の奥底から飛び出してきますね。いよっ、べらぼうだ!

するとそこへ留四郎が入ってきました。なんでも鳥山検校から書状が来たそうです。

当道座は、太夫の「豊前太夫」襲名を認めるとのこと。

蔦重が掛け合ったのか?というと大文字屋が「私です!」と言いかけ、りつに止められる。

蔦重は「検校は太夫の声を聞いて決めたとある」とし、太夫自身の声だと謙遜しております。

「あの、最後にひとつ。一つだけ、願いがございます」

そう蔦重は切り出し、太夫の直伝を預けて欲しいと願いました。

ったく、鱗形屋がここにいたらブチギレそうな話ですぜ、厚かましい奴だってよ。このちゃっかりしているところが蔦重の魅力ですね。

そのころ鳥山検校は三味線を弾いています。

妻の瀬以がやってきて、芝居に出向いたことの礼を告げます。

「そなたの望むことは全て、叶えると決めた。私はそなたの夫だからな」

「瀬以は、ほんに幸せ者にございます」

御新造はそう答えるけれど、夫の鳥山検校は何やら不穏な空気を漂わせてはいます。

 


めぐる侠気が世を良くしてゆく

襲名のことを早速聞きつけたのか。

鱗形屋が富本のためにも考え直して欲しいと豊前太夫に訴えています。

耕書堂は市中の本屋と諍いを起こしている。任せれば市中で売り広めができなくなる。

そう語るも、豊前太夫には逆効果だ。

「らしいねぇ。だったら尚更、あいつを助けてやりたいねぇ。それが、男ってもんだろ」

澄み切っていて、子どものような悪戯っぽさを秘めた目で返す豊前太夫。

りつやおっかけが見たら失神しそうな魅力ですな。

呆然とするばかりの鱗形屋が帰宅すると、利発な万次郎相手に、武士が絵解きをしています。

この武士は小島松平家内用人・倉橋格。筆名は日本史上最もカワイイペンネームなんてことも言われる「恋川春町」です。

鱗形屋が子守をさせてしまったことを詫びると、遊んでおっただけだと返す倉橋。

万次郎が礼を言いながら去ってゆき、倉橋は作品の相談をしたかったようですが、鱗形屋が困惑しています。

「いかがした?」

「いや……ろくにお礼もできぬのに、うちで書いてくださって、ありがた山で……」

倉橋は居住まいを正し、こう言います。

「当家の家老は、そなたにまことにひどいことをした。それを忘れるなど、男のすることではない」

偽板の件で、借りを返しているわけですね。そう言われ、感激が顔に滲む鱗形屋。

「すいやせん……すいやせん……」

そう頭を下げるばかりです。

蔦重にせよ、鱗形屋にせよ、「男の見せる侠」により救われます。

結果、蔦重は富本正本、鱗形屋は青本に力を入れるそうですぜ。

そのころ八丁堀の白河松平家では、当主となった定信が家臣を叱りつけています。

「これは市中の子供が読むものであろう。よい大人がかようなものでよう笑えるな」

「お許しくださいませ!」

そう頭を下げるしかない家臣。

手にしていたのは『金々先生栄花夢』でした。

ま、しょうがねえんすよ。参勤交代で江戸にいる武士は暇なもんで、貸本屋が来ると飛びついて借りて貪り読んじまう。

で、松平定信なんですけど、性格的には猜疑心が強いことは確かでさ。でも、感受性は豊かなんですよ。

面白いもの。美しいもの。それを見抜くセンスはしっかりあります。

さて、今後、彼はどう描かれるのか。

 

MVP:りつと馬面太夫

馬面太夫は市川門之助とのコンビが実に見事ですが、ここはりつで。

推しとそのファンを通して、エンタメ受容における女性の地位がみえてくる。ジェンダー的に大変面白い構図といえます。

浄瑠璃ブームの時点で、女人気が重要視されてきて、それが無視できないものになっていく過程が浮かんできましたね。

蔦重が「祭りに老若男女を呼ぶ」と断言したあたりにもそうした点は見えてくる。

これは江戸時代の文化を考える上でも重要なことだと思うのです。

馬面太夫のおっかけガールズは、ファンサうちわのようなものを持っておりました。

あれは実在していて、浮世絵師は団扇絵というものも手掛けているのですね。

しかし団扇絵は使い終えたら廃棄されるし、骨に貼り付けられるものですから、当時の現物は残りにくい。たまたま貼らずに残った絵が展示には適しています。

そんな事情もあって、団扇絵ばかりを集めた展覧会は、2024年夏にやっと開催されました。

太田記念美術館開催『国芳の団扇絵 猫と歌舞伎とチャキチャキ娘』であり、世界初となります。こうした団扇には美女や猫だけでなく、美男ものもあります。

国芳は蔦重の没年に生まれた江戸後期を代表する浮世絵師です。

この時代となると、女人気を当てこむことはむしろ当然。

蔦重と縁が深い山東京伝には山東京山という弟がいて、京山と国芳がタッグを組み、女性け出版物でヒットを飛ばしたりしているんですね。

国芳はイケメンと猫で、女人気もがっちり掴んだ浮世絵師でした。

なんせ国芳は、エロいイケメン絵が抜群にうまい。

武者絵とジャンル分けされますけど、あれは本当に抜群にいやらしいのだと私は気づかされました。

国芳は『水滸伝』の百八星を描いてブレイクしましたが、中国本場と比べても妖艶すぎて、具体的に説明してゆきますと、まず髪の毛に注目。

本場では髷を結っています。

それが日本だと、水に入るしザンバラになると解釈されて、濡れた髪がほつれて肌に張り付くというセクシーぶりになっています。

次に露出度。日本人は「水に入るから脱がせるだろ!」と考えたのか、褌一丁になっています。

当時の中国では褌が廃れていて、せいぜいが上半身裸、下半身はパンツスタイル程度です。紐パン一丁になっている日本の『水滸伝』はギリギリのエロスを攻めています。

そして表情も、悩ましい。

総じて、本場のものよりもはるかにいやらしい!

こうした武者絵は主に男性が買っていたとされますが、りつのような女性が手に取って「艶っぽいねえ」とうっとりしていても不思議はない。

なにせ、百八星でも露出度が高いイケメンの史進あたりは、複数のバージョンがありますからね。そりゃ、ファンとしては出るだけ買うだろ! そう腑に落ちました。

そしてこれが江戸男のロールモデルとなっていった。

江戸男のおしゃれは辛いんです。褌までチェックされるわ。ビキニラインならぬ褌ライン脱毛も要求されるわ。せっかちでないとかっこ悪いってんで、蕎麦は噛まずに飲む羽目になるわ。

中でも一番エクストリームなファッションは、刺青でさぁね。脱いだ時にオシャレだし、痛みに耐えたタフガイぶりをアピールできると。駿河屋の親父殿も立派なもんを入れてるそうですぜ。女房のふじも惚れちまうわなぁ。

りつが馬面太夫をうっとりと眺め、その艶や色気に惚れ込む様は、まさにこれぞ江戸だと思いましたね。

歌川国芳『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』/wikipediaより引用

てなわけで、江戸の女はイケメンにキャーキャーすることが当然でした。

りつはそれをよく理解しているから、男の嫉妬を見抜いてズバズバ指摘してくる。

りつがイケメンにうっとりしていると、僻んだ男どもがなんかゴチャゴチャいってきたんでしょう。今でもおなじみの、こんな文句は江戸時代からつけられています。

「女に芝居や芸の良し悪しなんざわかりゃしねえ、美男目当てで来てやがんのサ」

そんなもん、男だって女の色香を目当てにして楽しむことあんだろ。

この手の偏見は未だにありますよね。男性アーティストなんかが「女性だけでなく男性向けにもパフォーマンスをしたい」みたいなことを言い出して揉めたりするんですけどね。

案の定、大河ドラマが女性ファン獲得のためイケメンを脱がせるつもりだ――なんてしょうもねえ記事が出てるだろ。いつの時代も同じさ。

女人気に応じる馬面太夫により、中身はさらに深く掘り下げられ、芸と顔だけではないとわかります。

彼は目が透き通っていて、とても美しい。人がよいのだと思わせます。

いつも穏やかで、繊細で、優しい人だとファンも理解しているのでしょう。

「お優しい〜!」

そう声を上げるファンから、優しさ込みで惚れていると伝わってきました。

彼は幼くして父を失い、名見崎徳治はじめ周囲に可愛がられ、育てられ、見守られて育ってきた。

自分一人でここまで来たわけじゃない。優しい気持ちに守られていると理解している。

その恩返しをしたい。

目の前にいる人。弱くて困っている人。気の毒な人を見たら、ともかく優しくしたい。優しくすることが行動原理だから、体が勝手に動く。それが男だと彼は理解しています。

見た目も声も大事だけど、それ以上に優しさが大事だ――そう自然と振る舞える、まさに世の宝のような人ですね。

そうやって損得を一旦横に置くことで、本来の意味での「情けは人の為ならず」を描いてゆく。

誰もが忘れてしまったかもしれない優しい心根を取り戻していくような、ありがた山ドラマです。

ただし、それをいうなら蔦重も、恋川春町も優しい男といえる。それが波乱を巻き起こすこともある。それが今度の着目点でしょう。

 


総評

私は満足したけれど、また絡まれそうだと思いました。

馬面太夫と恋川春町が、弱い者を助けたときに口にしたセリフが「それが男だろう」と性別に絡めたものだったからです。

これがジェンダー的にどうかと言われそうではありますが、文化の特殊性やら何やらも関わってきますよね。

確かにさっぱりした女性を「まるで男みたいだ」ということが物議を醸すことはわかる。

ただ、舞台は江戸時代の江戸ということは要注意ではないでしょうか。

江戸の場合、男女双方、共に強きを挫き弱きを助ける気風が重視されます。

京大坂の遊女を比較した場合でも、江戸は侠気があるところがよいとされたものです。

そこはなかなか考えられていて、今週は忘八のなかでも唯一の女性であるりつが活躍しました。

大文字屋が利益重視であるのに対し、りつはまっすぐな誠心誠意で事態を打開しようとします。

今回は芸能とその女人気という、ジェンダー観点からみて極めて斬新なところに切り込んできましたぜ。歴史学は日に日に進歩するもんだなあ。

それに最近は、男も女も、妙にギスギスしちゃって。人に救われて当然だと思うなとか平気で言っちゃうでしょう?

そういう厳しさは世の中をよいものにしていない。悪くばかりしている。

人を助ける前に算盤弾いて、自分が得するかどうか踏まえてでないと動かない。フォロワーがどう思うかとか。そんなことばかりで、自分のまっすぐな気持ちに向き合おうとしていない。

それじゃ、だめですよね。

自分の感覚を信じて、人を助けて、みんなで少しでもいい世の中にするよう考えていかないと、追い詰められるだけ。

そう感心しているんですけどね。

江戸中期の知識とか。伝統文化芸能とか。そういうものとフェミニズム批評の相性がかなり悪いんじゃないかとちょうど確認したところなんで、どうしたもんかと思っているところではあるんすね。

朋誠堂喜三二みたいに私は「いいねいいね!」と浮かれてますけど、どうにもそれって、マニア向けなんじゃねえかなという懸念もありますし。

でもそういうこと指摘すると、十中八九揉めるとわかっているんでね。

でもあえてやってみるんで、そんなしょうもない話につきあえるなら、ちょっと先まで読んでもらえます?

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