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 【『べらぼう』感想あらすじレビュー第42回招かれざる客】
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「いい話」って、お前にとってだけだろうが!
蔦重は歌麿の元を訪ね、武勇伝のようにこのことを聞かせています。
蔦重がウキウキした口調なのが不快極まりない。
歌麿は困惑し、やるなんて言っていないと返します。
「もうやると言っちまった」と返す蔦重に、呆れ果てる歌麿。
そのうえで歌麿のことなぞ放置して自分の都合を語り出します。
身上半減で吉原への借金を止めてもらっていて辛い。吉原もいま苦しい。そのうえで、歌麿五十枚、借金百両返済の話を進めます。
歌麿の大首絵なら売れるから賄える。儲けも張れると言います。
歌麿の作品を金のことだけで語っている。
蔦重は鈍感なので「お前の絵が売れるって褒めているんだから喜ぶよな」あたりで思考停止しているのかもしれませんぜ。
そのうえで、歌麿がどこまで気張れるかと、相手に責任転嫁してきます。そのうえで、吉原が持ち出しなく女郎を売り込めると話をまとめ、いい話だと締めくくります。
だからその「いい話」ってぇなぁ、テメエにとっての「いい話」だろ!
「それ、借金のかたに、俺を売ったってこと?」
そうやっと返す歌麿。そうです、蔦重は女郎屋に娘を売り渡すものと同じことをしました。
「いや、売ってねえ! 今まで通り、お前への礼金はちゃんと払うから」
「けどそんな話聞いてねえってありえねえだろ!」
そう歌麿に言われ、頭を下げる蔦重。そのうえでこう言います。
「けど……いい話だろ? うちも吉原も助かる。お前の名だって売れ続けるわけだ」
さらに蔦重は手をついて頭を下げてこう付け加えます。
「頼む、ガキも生まれんだ! もうんなことねえと思ってたが、ありがてえことに授かってよ。いろいろ出すには出したが、大きく跳ねたのは『十躰』と『看板娘』だけだ。正直なとこ、新たな売れ筋が欲しい。頼む、お前だけが頼りなんだ! 身重のおていさんには苦労かけたくねえんだ、頼む、頼むよ!」
うわあ……思うようにヒットしていないとか、クリエイターに向かって堂々と言いますかね?
じっと俯き、考え込む歌麿。軽く笑ってこう言います。
「……仕方中橋。やってやるよ」
「ほんとか?」
「義兄(にい)さんの言うこと聞かねえと、俺は義弟(おとうと)だし」
「恩に切る。恩に切るぜ!」
蔦重は歌麿の手を執り、軽く叩いてから頭を下げるのでした。
この場面はあまりにひどい。
蔦重がていの妊娠を告げたことが決定打になるということがわかります。しかも、その子は蔦重と歌麿の間を取り持ってきたつよの生まれ変わりだと信じられているのです。
今回のサブタイトル「招かざる客」とは、ロシア船だけではなく、歌麿にとってのこの子のようにも思えてきます。
歌麿はなぜ絶望したのか?
蔦重への愛が、自分から子に移るからか?
あるいは別の理由なのか?
あっしとしちゃ、蔦重の付け込みぶりが腹立たしい。
歌麿がもっと冷酷であれば、蔦重も、吉原も、そんな都合なんざ俺の知ったこっちゃねぇ、テメエの都合だと蹴っ飛ばすこともできると思うんですよ。
でも、なまじ歌麿は優しいので、それができず、聞いているしかできない。
そこに蔦重はますます付け込んできて、責めようがない妻子まで巻き込んできたと思えます。
もう徹頭徹尾、卑劣なんですな。
ここで蔦重が、少しでも歌麿の気持ちを確かめるのであればまだマシではあります。
彼だって辛い人生を送ってきています。その前半生はおぼろげにしか知らずとも、愛妻のきよを亡くした姿は見ているわけです。
歌麿が美人画を描けるようになったのは、妻との別れという悲しい体験があったということも知っているはずなのです。
しかし、蔦重がそのことを持ち出しましたか?
していませんよね。これは彼の徹底したところでもあり、同じく身上半減で苦しんでいた須原屋のことも忘れたかのよう。
恋川春町も、田沼意次も、田沼意知と誰袖も、平賀源内も、新之助とおふくも、瀬川も、近頃じゃ、とんと思い出しもしない。
自分の半径数尺範囲だけを見て、その都合だけべらべらべらべら喋り散らす。
つよはそのことを警戒していました。
彼女は気配りができ、聞かされずとも歌麿が辛い人生を送ってきたと理解していました。
そのことを全く思い出しもしない蔦重。そのくせ歌麿の優しさつけ込む。恩着せがましさだけは存分に発揮する。
もののみごとに最低の存在に成り下がりました。
しかし当人は痛い目に遭うまでそのことに気づきもしないでしょう。
自分とその周りだけ見て、上機嫌でいるのでしょう
こんな奴、どうなろうとこっちの知ったことではない。
畳の上で死ねるだけ御の字だと思ってください。どれだけ人の恨みをかっているか少しは考えましょう。
歌麿、別れを決断する
その夜、蔦重は寝室でていといます。ていは腹の子が動いたようだと言います。
「もう動き出しやがったか、このべらぼうめ!」
そう笑う蔦重です。
そのあと、歌麿が険しい顔をして手鏡を覗き込む場面となります。
歌麿の顔の画風が変わっちまった……前は歌麿美人だったのに、これじゃ愛しさ余って相手を殺しに向かう、月岡芳年の清姫じゃねえか!

月岡芳年『新形三十六怪撰 清姫日高川に蛇体と成る図』/wikipediaより引用
その背後から万次郎が、自分の顔でも描くつもりかと声を掛けます。
「いや……ちょいと恋心をね」
恋心の何をしていたのか? 己の思いを確かめたかったのでしょうか。
万次郎は優しく、蔦屋との次の仕事かと言い出します。
「西村屋さん、お受けしますよ。仕事」
「え?」
「この揃いものを描き終わったら……もう、蔦重とは終わりにします」
そう歌麿は言い切るのでした。
MVP:蔦屋重三郎VS万次郎
バブルの夢が忘れられない無神経発注主と、理解ある受注主――そう見えてなりませんぜ。
それに、このドラマはどこまで現代社会を風刺してしまうのか恐ろしくなってきました。
蔦重と万次郎の違いはどこにあるのか?
まず、蔦重は歌麿の絵を褒めるとき、売上のことばかりを言ってきます。
これは日本橋進出以降、一貫性があるかもしれない。目利きプロデューサーである俺が売れると言っているから喜べ。そういう発想があると思えます。
一方で万次郎は、作品そのものに魅力があると自分の言葉で語りました。
歌麿は同じようにしてくれた栃木の豪商にも、心を開いています。金の落ちる音よりも、心が震える音を知りたいのが歌麿という絵師なのです。
次に人生経験。
蔦重は吉原育ちです。客を騙してでもおだて、その場を盛り上げるパリピとしての才能は培われています。
しかしじっくりと考えることや、鑑賞することには向いていない。瞬発力型です。教養を磨く時間もありませんでした。
万次郎は、実父のおかげで恋川春町に勉学を習う機会がありました。
西村屋に入ってからは、錦絵についてじっくり学ぶ時間がある。
万次郎の抱負なアイデアは、蔦重の若い頃を彷彿とさせます。
しかしそれだけでなく、さらに磨きがかかっております。教養と思考の蓄積があるぶん、蔦重を上回っているのです。
この二人を見ていると、現実に引き寄せたくなってもくるのです。
テレビ、漫画、ゲーム。こういったものばかりを楽しんでいた子供たちは中身がなくなるとかつては言われてきました。
そうした議論がいつの間にか消えていくと、あれは嘘だったと片付けられることが多い。
それはどうか? 確かに荒唐無稽な理論はありました。
しかし、科学的に根拠なしとみなされたわけではなく、ただ単にその業界が経済的に重視されるようになるとか、楽しむ層が十分に増えると議論が下火になることもあります。
「私は漫画とアニメ、ゲームを楽しんで育って大人になったよ! でもまっとうな大人になったよ」
今、かつての子供達はそう言えるのだろうか。蔦重を見ているとそんなことを考えてしまいます。
こういうことを語り出す友人や知人の中に、何でもかんでも漫画やアニメの世界観の延長で語り出し、話が通じない人が出てきます。
教養や勉強はやはり大事だったのではないか。
その結果を今、こうして目撃しているのではないか。
そう考え込んでしまう状態を、今の蔦重を見ていると思い出してしまいます。
そして倫理観。
蔦重は、結局のところ「忘八」じゃないかと思えてきました。
道徳心が全くないとは言い切れない。しかし、倫理観の底が抜けているんじゃないかと思うことは確かです。
思えば彼は吉原では客を騙して利益を得ていました。それが悪いとみなされない環境で育ってしまったのです。悪いことをしても運が悪かったと次へ進む厚かましさも身につけています。
今回の場合、蔦重は人相見に迷惑をかけたことをどこまで悪いと思っているのかわかりません。
遡ってみればおていさんのおかげでどうにかなかった入獄の件でも、反省があまり見られません。
さらに遡れば恋川春町を死に追い詰めたと思えなくもない点もどう思っているのやら。
蔦重はよく言えばポジティブということになるのでしょうが、なんでも自分にとって都合の良い方へ解釈しすぎです。
厳しいことを言えば、他責思考、無責任、無反省、三歩歩けば自分の過ちを忘れる。倫理観がないのです。
万次郎はまだ出てきたばかりとはいえ、義理があります。
歌麿には何度も蔦重との仕事があるのかときっちり断っています。生真面目に見えています。
さて、そんな二人の過去を振り返ってみましょう。
鱗形屋と蔦重は和解したといえばそうです。
しかし、長男の長兵衛はそのことを見ていても、次男の万次郎はそうではありません。その顛末を見届けぬまま、西村屋に奉公することになっております。
それどころか『吉原細見』を蔦重が掻っ攫っていったと恨みの目で彼を見ていました。
西村屋と蔦重も色々と因縁があります。劇中では出てきませんが、美人画対決では西村屋が押されています。
こうしたことを踏まえますと、万次郎は恨みがましい思いを蔦重に抱いていてもおかしくはないのです。
さて、そこをどう出していくのでしょうか。
そしてここから先はネタバレですんで、嫌な方は飛ばしてくだせえ。
この先、二人はどうなるのか?
万次郎こと二代目西与は、蔦重を打ち負かすことになると予測できます。
役者絵で蔦重の東洲斎写楽に対し、歌川豊国をぶつけてくるわけです。
写楽はなまじ知名度が高いだけに、盛り上がると言えばそうですが、史実では豊国の完全勝利です。
蔦重がどう負けるのか。楽しみに待ちましょう。
これは西与だけのことでもなく、豊国は和泉屋市兵衛が推しておりますが、ドラマとしては西与のみが目立ってもおかしくないと思います。

歌川豊国/wikipediaより引用
最終盤となると史実の取捨選択が大胆になってきまして、鳥居清長と鳥文斎栄之は出るかわかりません。判じ絵攻防も飛ばされそうです。そういう意味でもますます気になる展開ですぜ。
それにしてもよ。
「親なし、金なし、画才なし……ないない尽くしの生まれから“江戸のメディア王”として時代の寵児になった蔦屋重三郎」
というキャッチフレーズが、こうなっちまうとはよ。
「センスなし、配慮なし、倫理観なし……ないない尽くしで愛想を尽かされる蔦屋重三郎。」
なんてこったい!
蔦重は本当に何もない。歌麿のような画才もない。春町のような文才もない。ていのような教養もない。つよ譲りの愛嬌は消えた。駿河屋から引き継いだはずの度胸は歪んだ。
田沼意次のように経済を回すことを語るものの、理論は知らないで所詮は猿真似。
平賀源内と須原屋のように書を以て世を耕すと掲げるものの、理解がどこかでおかしくなった。
どうしてこうも空虚なんでしょう?
総評
蔦重と歌麿という義兄弟が、川沿いの道を二人で駆け抜けていたあの場面。
青春の煌めきそのもののあの場面を、苦い気持ちで思い出すことになるだろうとは思っておりました。
『麒麟がくる』における、明智光秀と織田信長が「大きな国を作るのだ」と語り合った場面と同じ役割を果たすのだろうと思っておりました。
その予想がバッチリ当たっています。
次回予告はこれまた強烈。
歌麿は蔦重への思いが憎しみへと変わっていることがわかります。
同時に蔦重にとっては、青天の霹靂であることも……。
歌麿はこれまでも何度も警告を発しています。これまた『麒麟がくる』でも、光秀が信長相手に路線変更をするよう促していたものでした。
それが通じないから強硬的な手段に出たところ、突如キレたかのように思われてしまう。なんとも悲しい現象ですね。
その決裂する様をじっくり描いているので、もうこちらとしては蔦重は吉原にいた方がよかったんじゃないかと思いますよ。
己で作り出す画才や文才がないだけならまだしも、見抜く目すらあやしい。
前述した通り、錦絵の一部を弟子に描かせることは大いにありなんです。
でも、それを背景のない大首絵でやるというのはあまりにセンスがない。
結局こいつはわかったフリをしているだけなんじゃないか。何もかもそうじゃないか。そう思わせてしまったのは実に痛々しいことです。
わからないならわからないって、素直に言えばまだマシなのに。
そしてこれがなんとも不気味なことに、現在の社会状況を反映しているようにも思えます。
インターネットの隆盛は、蔦重タイプが注目を集めやすくしました。
中身がなくともキラキラしてはしゃいでいる人間が目立ちやすい。
歌麿のように誠意を持って心を込めて向き合いたい人間には、不利な状況が形成されています。
その弊害があるのではないか?とようやく検証される流れがきているように私には思えます。
なんておそろしいドラマでしょう。
今週は見ていて辛かったけれども、蔦重に苛立つ反響を見ていて安堵しました。
やっぱりああいう陽キャ鈍感パリピに迷惑を被ったり、苛立っている人間は少なからずいるのだと再確認できたのです。
そりゃそうでしょうね。あっしの抱えるモヤモヤ感が、このドラマのおかげで少し整理がついて気分爽快でさ。今週もありがた山でした。
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【参考】
 べらぼう公式サイト




