歴史戦国でワクワクしたい!

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

まんぷく

ラーメンの歴史は明治維新後にスタート~日本の歴史と歩み、世界の食となるまで

投稿日:

2018年度下半期の朝ドラ『まんぷく』は、インスタントラーメン作りに挑んだ安藤百福夫妻が主人公。
開発を始めたとき安藤百福には、ある確信がありました。

「日本人はラーメンが好きだ! 絶対に当たる」

ここでちょっと立ち止まって考えたいことがあります。

確かに、今の日本人はラーメンを愛していると言っても、過言ではありません。しかし、百福がそう考えた当時は、まだそうとは言い切れないものでした。

ラーメンの歴史は、日本でいつ始まり、どうやって各地へ分散していったのか?

今や世界食になったと言ってもいい、その足跡を追ってみたいと思います。

 

そもそもラーメンとは何か?

かつて【日本で初めてラーメンを食べた人物】として名前があがっていたのは水戸光圀。

これが最近書き換えられ、室町時代の長享2年(1488年)に
【中国の麺類「経帯麺」を食した】
という記録が発見されました。

ただし、これもいささか大ざっぱな話ですよね。

日本で「ラーメン」といえばざっくりと中国の麺類という話になりますが、中国での「拉麺(ラーメン)」は手で延ばしているという定義が加わります。
生地を包丁で切る場合は「切麺」になるのです。

このへんでややこしくなってきますので、麺製造過程についてはもはやとりあえず問わないこととして、
【日本で食べられている、中華麺を用いた料理=ラーメン】
ということに本稿では統一します。

中国のラーメンは手で延ばす/photo by Youngjediboy wikipediaより引用

そして本稿では、室町時代にせよ、水戸光圀にせよ、初めてのラーメン論争に関しては敢えて触れないこととします。
特権階級の一部が食べただけでこ、食習慣として庶民に定着したわけではないからです。

また「ラーメン」は「中華そば」や「支那そば」といった呼び方もあります。
本稿では特に断りのない限り、「ラーメン」と統一して表記します。

 

スポンサーリンク

明治の開国と共に普及したラーメン

日本の国民食として定着するラーメンのルーツは、1880年代、明治初期からと見られます。

横浜に広東地方出身の人々が住み着き、外国人相手にラーメンを提供し始めたのです。
当時の顧客は、故郷の味を懐かしむ出稼ぎ労働者や留学生といった、清出身の人々でした。

それが1900年代に入り居留地が廃止になると、それまで敷地内に限られていた中華料理が、だんだんと広がっていきます。
1910年代の明治時代末期には、日本人が経営するレストランでも、ラーメンが提供されるようになりました。

日本人向けにアレンジされ、メンマやチャーシューが載せられたラーメンは腹持ちがGOOD!
特に肉体労働者や学生、兵士といった、がっつり食べたい客にとってはありがたいメニューだったのです。

塩分、油、そして小麦粉の麺。
健康の観点からは問題視されがちな要素ですが、スタミナ付けて頑張ろうぜ、という時にはありがたい。それは明治時代から大正時代の人々にとっても同じだったんですね。

1920年代になると、さらにラーメンは拡大しました。
これにはどうしたって、日本に来ていた中国人が広めたという事実は避けて通れません。

例えば日本三大ラーメンのひとつ「喜多方ラーメン」は、中国人青年の藩欽星(ばんきんせい)が、屋台を引いて売り始めたことが発祥とされています。

太縮れ面が特徴の喜多方ラーメン

当時の喜多方市には電気工場があり、中国や朝鮮半島出身者が多く働いていました。喜多方ラーメンは彼らの間で食べられていたものが、地元の人々にまで広まったことが由来です。

このあたりが「THE・ラーメンの歴史!」という感じです。
山奥で交通の便が悪い会津地方の喜多方でも、中国から多くの人が働きに来た証拠に他なりません。

そうです。
ラーメンの歴史は、日本の歴史とも連動しているのですね。
関東大震災では、被災地から逃れた経営者が、全国拡大に一役買っています。

しかし、この拡大ブームにも、急激なブレーキがかけられてしまいます。
1937年(昭和12年)から始まる戦争により、物資が不足。
日本の食文化、そして日本という国そのものが大打撃を受けたのです。

多くのラーメン店が閉店を余儀なくされました。

 

闇市とアメリカの小麦粉政策

安藤百福がラーメンの可能性に気づいたのは闇市がキッカケでした。

なぜ、そこでは行列になるほど食べられたのか?

1945年(昭和20年)の敗戦後も、日本では極度の食料難が続きました。その結果、映画『火垂るの墓』の主人公兄妹のように、飢えて亡くなる孤児も大勢いたのは周知の通りです。

そんな中、比較的手に入りやすい穀物は小麦でした。
米軍の小麦粉緊急輸入により、大量の小麦粉が手に入ったのです。

アメリカ政府は当初の方針をまげ、日本への食料援助を積極的に行うことにしました。
日本をかつての敵国から、冷戦下でのソ連に対する同盟国に塗り替えること――急務でした。そのための食料援助など安いものだったでしょう。

こうして闇市には、アメリカ産の小麦粉が溢れたのです。

あふれていたのは小麦粉だけではありません。
中国大陸から引き揚げてきた人々は、ラーメンや餃子の作り方を習得。レシピを頼りに、中華料理を作り始めたのです。

戦後の中華料理の広がりは、こうした引き揚げ者も関係していました。和食よりもスタミナがつくというイメージは、飢えに苦しみ活力を求める人々にとって魅力的でした。

想像してみてください。
ずっと慢性的に飢えて、サツマイモやその蔓や葉っぱまで食べていた――そんなとき、目の前にラーメンが出てきたとしたら。
あたたかく、芳醇な香りで、湯気がたち……たまりませんよね。

戦前も肉体を使う男性に好まれましたが、戦後もこの状況は変わりませんでした。
やや粗野な食べ物というイメージがあったのです。

「女性一人でラーメン屋なんて恥ずかしい!」
という、今からすればナンセンスな話も、そうした名残だったのでしょう。

闇市のラーメンとは、戦後復興期の日本人にとって、輝かしい思い出の味。
それはアメリカの政策と深く関わりがあり、日本の歴史とも連動していたのでした。

 

スポンサーリンク

米を食べるとバカになる!?

小麦粉なら、パンより絶対ラーメンの方がイイ――そんな信念のもと、安藤百福はチキンラーメンの開発・生産に取り組みました。

実はそのことは1950年代のアメリカ側も認識していた様子。
思ったよりもパンは好まれていない。パンそのものを配給するより、小麦粉を直接分けた方が良いのでは?

1955年(昭和30年)から始まる高度成長期になると、ラーメンの役割は変化します。
闇市で人の腹を満たす一杯から、肉体労働者や学生向きの、気軽でおいしい食事へと変わってゆくのです。

油っこくコクのあるスープ。
コシのある麺。
それらは若者を中心とした日本人の心――ならぬ胃袋をシッカリと掴みました。

これは単純な話ではなく、なかなか政治的な背景がありまして。

アメリカは、食料の輸出先として日本に目をつけました。そのためには、食事や西洋化し、小麦粉や乳製品を口にしてくれたほうがありがたいのです。
米、サツマイモ、豆類の重要性が低下し、代わりに小麦粉、乳製品、肉類の需要が高まってゆきます。

ラーメンは中国発祥の食べ物ではありますが、高度成長期にラーメン消費量が増えていったのは、アメリカの食料政策が背景としてありました。

こうした小麦粉プッシュには、今からみるとトンデモナイ話もありまして。
1959年(昭和34年)に発表された大磯敏雄の著書『栄養随想』には、
【西欧人が合理的な考えをするのは小麦粉を食べているから、日本人も米ではなくて小麦粉を食べるべき】
という、ぶっとんだ思想が掲載されていたのでした。

当時は、大真面目です。
東大教授までこうしたデマをバラ撒き、「米を食べるとバカになる」というパンフレットも配布されていたのですから、わけがわかりません。

 

インスタント食品時代の到来

伸びる小麦粉消費量と、高度成長期という時代背景の中、日本人はますますラーメンを食べるようになります。
その総仕上げが、安藤百福によるインスタントラーメンの開発および販売でした。

インスタントラーメンは、ラーメンを食べるべき第3の理由を生み出しました。

【調理の簡単さ】です。

1958年(昭和33年)のチキンラーメン発売のころ。
海の向こう側では「テレビディナー」が人気を集めておりました。

メインディッシュと副食物をトレイにつめこんだもので、オーブンであたためてそのまま食卓に出せるモノ。女性の社会進出とテレビが普及し始めた当時、ほぼ準備なしで食べることのできるこうした「インスタント食品」は人気を博しました。

チキンラーメンは当初割高で、業界は本当に売れるのか、疑念すらありました。

しかし、安藤は調理の手間をかけたくない人には、この簡便さが受けるはずだと睨み、その通りになります。
チキンラーメンはじめインスタント食品が急速に普及し始めた時代。




スポンサーリンク


ラーメンは別の変貌を遂げてゆくことになったのです。

次のページへ >



-まんぷく

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2018 All Rights Reserved.