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江戸時代 その日、歴史が動いた

平賀源内の最期は獄死?エレキテルは彼の発明じゃなかった!?

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江戸時代、自由すぎる生涯を送った人がいました。

安永八年(1780年)12月18日に獄死した平賀源内です。

エレキテルを発明した――として知られますが、これはちょっと語弊があって、正確には発明ではなく改良になります。
どういうことか?

彼の生涯とあわせて見てみましょう!

 

武田家に滅ぼされた後は奥州の伊達家へ 

彼の名は日本史の教科書に必ず出てきますので、「エレキテルの人」と覚えている方が多いでしょうかね。

最近ですとよしながふみ先生の「大奥」でも数回に渡って登場していましたし、某菓子パンヒーローのキャラクターの元ネタになったこともあるので、昔の学者さんとしては比較的よく知られているほうではないでしょうか。
こう書くとホントはどんな人物なのかよくわからなくなってきますが、調べるとさらに「(´・ω・`)?」な印象を覚える人でもあります。

源内の実家は、身分は高くないものの戦国時代あたりから続く武士の家柄でした。記録がはっきりしない部分もあるものの、元は信濃の豪族だったといわれています。
そして武田家に滅ぼされた後、奥州に移り住んで伊達家に仕え、政宗の長男・秀宗(過去記事:伊達政宗と長男の少し切なくてイイ話し(切られた家臣のことは横に置いて)参照)が四国・宇和島で独り立ちして藩を作ることになったとき、一緒にやってきたのだそうです。
その後何がどうなったのか、宇和島藩ではなく隣の高松藩へ仕える家になりました。

 

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頭脳明晰で行動力バツグン まるでエリート電通マン

源内も順調に行けばそのまま高松藩士の一人として生涯を送っていたのでしょうが、彼の場合は並外れた頭脳がその道に疑念を抱かせたようです。
13歳で本草学(現代で言う博物学)を学び始め、自然科学などさまざまな分野に興味を持った彼は、一度は藩に仕えるものの、一生学問をやっていきたいと気持ちが強くなります。
長崎へ遊学し、オランダ語など西洋の学問や文化に触れてからはもう半分以上武士でいるつもりがなかったのでしょう。妹に婿養子を取らせて後を継がせるというなかなか強引な手段で家の始末をつけ、自分は身一つで大阪・京都・江戸を渡り歩いて知識を深めていきます。

ここまでならただの物好きな学者というところですが、源内の場合ここからさらに実用的なことをいろいろやり始め、行動力もレベルアップしていきました。

もう一度長崎に行き、鉱山開発や精錬技術などを学んだ後、幕府の御用で伊豆に赴き、硝石や黄ミョウバンなどを採掘、実用化するための工夫を重ねたのです。
硝石は火薬や薬の原料、ミョウバンは染色剤や防水剤に使うものなのですが、当時これらの鉱物は国内であまり見つかっておらず、ほとんどを輸入でまかなっている状態でした。そのため幕府は相当額のお金をこれらに費やしており、財政が圧迫されていたのをなんとかしようという狙いだったようです。

結果的にはさほど成果は上がらなかったのですが、「ないなら作ればいいじゃない」という発想の転換は現代の「石油を作る藻」ことオーランチオキトリウムや、バイオエタノールの開発などと通じるものがある……かもしれません。

源内が記した物類品隲/wikipediaより引用

源内が記した物類品隲/wikipediaより引用

 

 さすが源内しゃん! あの田沼意次に気に入られていた?

こうした働きを知った高松藩のほうでは源内の頭脳を惜しんだようで、「またウチで働かない?」と誘い掛け、彼も一度は応じましたが、二年ほどで「やっぱ辞めます☆」と再びお勤めを辞めてしまいました。
さすがにこうなると世間体にも響くので、奉公構(=「この人雇わないでください」という他家及び幕府への連絡)を受けることになります(奉公構についてはコチラに詳しい例が)。

が、元々勤める意思がないからか、それともこれで学問に集中できると考えたのか、普通は不名誉なこの状態も源内はさほど気にしていなかったようです。メンタル強え。

晴れて?学問に専念できるようになった源内は、さらにアクティブになっていきます。
物産会の開催や本の著作、鉱山開発などで名声を得て、ときの老中・田沼意次にも随分気に入られていたようです。度々スポンサーになってもらったこともあるとか。
意次=賄賂のイメージが強いですが、ホントはこういうときの費用としてポンポン使ってたのかもしれませんね。

ちなみに冒頭でも述べた通り源内といえば「エレキテル」ですが、これは彼が発明したものではありません。元は電気治療のためにヨーロッパで開発された医療機器で、オランダ経由で日本に入ってきていたのを、源内が修理したのです。
しかし当時の日本人からすれば「箱の中から雷が出てきた!?」みたいな感じですから、衝撃も大きかったでしょうし、彼が造ったものと考えられてもおかしくはないですね。

源内と言えば、やっぱりコレ!しかし発明品ではなかったんすな…/wikipediaより引用

源内と言えば、やっぱりコレ!しかしオリジナルの発明ではなかったんすな…/wikipediaより引用

 

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 酒に酔って大工を殺害 最期は塀の中で破傷風を患って…

そんなわけで文理関係なくまさに万能ともいえる活躍をした人なのですが、晩年はそれまでとはうって変わって陰惨というか壮絶というかエグイというか。

源内はとある大名屋敷の修繕を請け負っていたのですが、ある日酒に酔って何故か「大工たちが設計書を盗んだ」と勘違いし、その大工二人を殺傷してしまうという、暴挙以外の何物でもない行動をしてしまったのです。
江戸時代は司法制度が結構シッカリしておりましたので、源内もいかに著名人とはいえ見事にお縄になってしまいました。殺人の場合、基本的には死刑一択で、罪状や情状酌量の余地があるかどうかで処刑方法や遺体の処置方法が変わるのですが、その辺を詳しく書くとグロいのでやめておきましょう。

源内も何らかの形で処刑されるはずでしたが、その前に破傷風を患い、獄中で病死しました。

破傷風もなかなかキツい病気で、「筋肉がうまく動かなくなったり激痛が走るが、意識が鮮明なため死ぬまで相当の苦痛を伴う」といわれています。なので、傍目から見ても何の病気かはすぐわかったのでしょう。

11月21日に投獄されて約一ヶ月で病死ですから、おそらくは上記のイザコザの際源内も負傷し、その傷口から破傷風菌が入ったものと思われます。

享年は52歳。当時の寿命から考えると早すぎるというわけではありませんが、もしその日酒に酔っていなければ、もっと違った功績も残していただろうと考えると、惜しまれる死に方でした。
破傷風は現代でもままある病気ですので、程度に関わらず出血するような怪我をしたときはちゃんと消毒しましょうね。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「平賀源内」
平賀源内/wikipedia

 



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