現代は男女平等が進んでスバラシイということになっていますが、歴史を紐解いてみると、名が残っていたり制度上女性のことも考えられていたというのは案外多かったりします。
鎌倉時代や室町時代には女性が領地を受け継ぐことも珍しくありませんでしたし、いかにも男女差別がすごそうな中世ヨーロッパでも、「女公」=女公爵という身分がありました。どちらも名目上のものであることのほうが多かったでしょうが、あるのとないのとでは雲泥の差ですよね。
それでも国のトップや同等の役職まで登りつめた女性となるとごくごく限られるわけで、やはりというかなんというか、そういう人は一般人には考え付かないような発想で歴史を動かしたことが多々あります。
1721年(日本では享保六年)12月29日に誕生した、ポンパドゥール夫人がそのいい例でしょう。
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仏国ルイ15世の公妾として
フランス王ルイ15世の愛人として有名な人ですね。日本語では「公妾」とも呼ばれます。
つまり「正式な妃じゃないけど王様と関係を持っていることを公にしておk」な女性だったわけですが、なんでカトリック=一夫一妻制のフランスでそんなことが当たり前になっていたのかというと、法律で「王様は妾おk☆」ということになっていたからです。
とはいえ、法律で許されてなくてもこの時代のフランス貴族は「えー愛人いないの?」「愛人がいなくて許されるのは社交界デビュー前までよねー」「キャハハ(ry」みたいな感じでしたので、何をいまさらという感じですが。
どこの国でも慣習とか暗黙の了解というものはありますよね。
フランスというかヴェルサイユ周辺ではこの他にもアレな意味でそういうものがたくさんあって、トイレは庭の片隅とか……。
まあそれはさておき、ポンパドゥール夫人はなぜ一国の政治を担うような立場にまで登りつめたのでしょうか。
ポンパドゥールというのはフランスの地名から
実は彼女、元は貴族でも王族でもありません。
平民の中でもお金持ち、つまりブルジョワ階級の生まれです。
本名はジャンヌ=アントワネット・ポワソン。
裕福ゆえに貴族と同等以上の教育を受けて育ち、成長するにつれて美貌とともに学力も上がっていきました。
そして20歳で結婚して社交界デビューを果たすと、その美貌により当時の王様・ルイ15世の目に留まり、公妾として認められて政治の世界にも足を踏み入れます。
このときポンパドゥール夫人という名を与えられました。
ポンパドゥールというのはフランスの地名からきている称号で、彼女個人の名前とは関係ありません。
愛人というと夜のお相手ばかりを連想するかもしれませんが、日本で大奥の女性達が表の老中に匹敵することがあったのと同様、ポンパドゥール夫人のような公妾も政治上で大きな役割を果たすことがありました。
自らの才能と頭脳について自負していた彼女は、政治に関心の薄いルイ15世よりもはるかに積極的かつ上手にフランスの舵取りをしていきます。
浪費には非難もあったが、同時に芸術家たちのパトロンにも
まぁ、愛人につきもののトンデモナイ贅沢もしていたのですけどね。
あっちこっちに豪華なお屋敷を建てさせたりとか。
その浪費振りにはもちろん非難の声もありましたが、芸術家や建築家、学者たちのパトロンとして彼らへの支援も惜しみなく行ったため、後世から見るとプラマイゼロといったところでしょうか。
女性にしては珍しく、複数の肖像画で本を手にしていますから、本人としてはデキる女性としてアピールしたかったのでしょうね。メディアがほとんどないこの時代、肖像画はイメージ戦略としてとても重要な手段でしたし。
彼女の功績として最も大きいのは、「外交革命」と呼ばれる出来事です。長年相争っていたオーストリアとの和解のことで、プロイセンという新興国家に対抗するためのものでした。
「◯◯戦争」の連続になってややこしいので乱暴に略しますと、この両国は当時の300年前から少なくとも6回は戦争もしくは一歩手前の状態になっています。そりゃそんな状態の国同士が手を組んだら革命的な出来事ですよね。
ここにロシアの女帝・エリザヴェータが入り、オーストリアのトップも女帝マリア・テレジアということで三人の女性が協力する形となりました。
このことを「三枚のペチコート作戦」ともいいます。ペチコートはスカートの透け防止・形を整えるするための下着のことですが、当時はドレスのこともさしていました。
女性が名実ともに国の主だったロシアとオーストリアはともかく、愛人に過ぎないはずのポンパドゥール夫人がいかに世間から重要かがわかりますね。
ちなみにプロイセンの王様・フリードリヒ2世は大の女性嫌いで、自分の妻にも冷淡だった上、一時はマリア・テレジアとお見合いするのしないのの話になっていたことがあるので、ある意味「男と女の戦い」でもありました。
七年戦争終結の翌年に亡くなる ルイ15世は涙目
ここで起きた戦争を七年戦争というのですが、結果的にはプロイセンを滅ぼす一歩手前まで行きながらそうはなりませんでした。
エリザヴェータが急死した&オーストリア軍と仲違いしたため、ロシア軍が途中で引いてしまったからです。
オーストリアとしてはこの前の戦争で奪われた領土を取り戻せなかったので「ぐぬぬ」状態に終わりましたが、フランスは当面の脅威を取り除けたことになりますから、まあまあといったところだったでしょうね。
七年戦争が終わった翌年、ポンパドゥール夫人は肺の病気で亡くなります。42歳でした。
彼女の影にすっかり隠れてしまうほど存在感も政治への関心も薄かったルイ15世でしたが、これには大いに悲しんだそうです。
ずっと前に夜のお相手としての関係は終わっていましたが、公私共に何かと頼りにしていたようで、「20年来の友人」とまで言っていたそうですからむべなるかなといったところでしょうか。
晩年にはナポレオンと最初の妻・ジョゼフィーヌのような関係だったのかもしれません。
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フランス一有名な寝取られ夫
こうして彼女は歴史に名を残したわけですが、本来の夫であるシャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールとの関係まではうまく行きませんでした。
そりゃそうですよね。
一応夫妻の間には二人子供がいたのですが、どちらも夭折してしまい、さらに「フランス一有名な寝取られ夫」とまで言われた彼は一生妻を許しませんでした。
ポンパドゥール夫人がルイ15世と夜のお付き合いがなくなった後も復縁を拒み、他の多くの女性と関係を持っていたそうです。
そして彼女が亡くなってからそのうちの一人と再婚して田舎に引越し、静かに暮らしていたとか。
フランス革命の時には一度捕まったこともあるものの、後に釈放されてパリで亡くなっています。
ルイ15世やフランスにとって彼女が大きな役割を果たしたことは間違いないですし、彼女自身も満足していただろうと思いますが、本来の夫を踏みにじってのことだとなんともいえないですね
公のためには個人的な事情を犠牲にせざるを得ない場合がある、というのはよくある話ですけども。
長月 七紀・記
【参考】
ポンパドゥール夫人/Wikipedia