慶応四年(1868年)1月11日、神戸事件が起きました。
神戸事件というと、どうしても平成9年(1997年)に同市で起きた『酒鬼薔薇事件』を彷彿とさせてしまいますが、今から約150年前の神戸で、フランス人水兵と岡山藩士がドンパチを起こし、幕府も巻き込んだ一大事件に発展していたのです。
一体なにがどうしてそうなったのか?
事の発端は【生麦事件】と似たような流れでして、ともかく当時を振り返ってみましょう。
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各国の海運関係者は神戸や大阪へ
開国当時の開かれた港といえば?
生麦事件の現場にもほど近い横浜港が有名ですが、慶応四年(1868年)頃にもなれば、横浜だけでなく、大阪や神戸も外国船の入港OKということになっていました。
しかし、幕末に攘夷運動が加熱していた日本で、コトはそう単純ではありません。
このころ【大政奉還】の実施から【王政復古の大号令】で権力が京都に移り、薩長が「徳川家ブッコロ!」な方向へ舵を切り始めると、にわかに事態は動いていたのでした。
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そう考えた各国の海運関係者が、神戸や大阪に集うようになったのです。
そして実際に【鳥羽・伏見の戦い】が起こり、戊辰戦争が始まると、その影響は想像以上に広範囲へ及ぶようになっていきます。
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岡山藩の隊列を横切るフランス人水平
それは明治元年(1868年)1月11日のことでした。
新政府に西宮の守備を命じられた岡山藩。
家老・日置帯刀の部隊が隊列を組み、神戸を行進していると、そこをあろうことかフランス人水兵が横切ろうとしてしまいました。
にわかに騒然とする岡山藩士たち。
フランス人たちの行為(=藩士たちの隊列を邪魔すること)が、大名行列を横切るにも等しい、非常に無礼な行動であることは説明するまでもないでしょう。
つまりは生麦事件と同質の状況に陥ってしまうのです
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それでなくても西日本では【下関戦争】や【薩英戦争】などで西洋人と直接ぶつかっており、良いイメージを持っていなかった人が多かったでしょうし、もしかしたらこのとき岡山藩兵の中にも、不幸な目に遭った縁者がいたかもしれません。
外国人が相手ゆえに、満足に言葉も通じません。
しかも、お互いに槍やら拳銃やらを出してしまい、近くにいた欧米諸国の公使たちを狙撃しかねない勢いのドンパチに発展してしまったのです。
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不幸中の幸いというべきか。
それともただ単に射撃の訓練不足だったのか。
銃撃戦にまで発展した【神戸事件】ですが、死者はなく、怪我人二名で済みました。
しかし銃撃戦は英・仏・米各国が相手となり、特にフランス公使をとてつもなく怒らせ、関係回復は困難に。
そこで明治新政府に肩入れし、何かと操っていたイギリス公使のパークスは寺島宗則や吉井友実に使節を派遣するよう通告します。
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穿った見方をすれば、明治新政府にとっては外交力アピールのチャンスでもありました。
まだ政権の権利委譲が完全に済んでおらず、外交に関しては旧幕府の管轄ということになっていたのです。
これはチャンス!と思いきや、幕府にとってはタイミング悪く、このころ徳川慶喜は大阪→江戸への航海真っ最中でした。
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逆に新政府軍にとってはチャンスでもありました。
新政府の人間がそ知らぬ顔して対応すれば「今度からコイツと話をすればいいのか?」となりますよね。
そこで最初は……。
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