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木戸松子/Wikipediaより引用

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西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

木戸松子(幾松)の波乱な生涯 木戸孝允のデキる美人妻は如何にして夫をたすけたか

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著名な政治家や武将など、歴史に名を残すような人の家族もまた大変なものです。特に妻や娘など女性の場合、戦国時代であれば家が滅びた際に自害を選ぶ余裕があればまだしも、有無を言わさず敵に嫁がされたりするのですから。
では、近代に入ってからはどうだったかというと、むしろ少女マンガか乙女ゲームかよ!とツッコみたくなるようなトラブルが起きることもありました。本日はその一人をご紹介しましょう。

明治十九年(1886年)4月10日は、木戸孝允の妻・木戸松子が亡くなった日です。

「幾松」という名前でご存知の方も多いかと思いますが、これは彼女の芸者としての名前で、先代の方から受け継いだものなので、本名のほうで統一しますね。

 

松子の美貌と才能に惹かれた金持ちが立ちはだかる 

松子の幼少期のことは、あまりよくわかっていません。
幼名もいくつかの説がありますし、兄弟が何人いたのかもはっきりしていないそうです。父親が小浜藩士、母親が医者の娘だったということはほぼ確定のようなのですが、このくらいの身分だとむしろ両親がはっきりわかることだけでも珍しいのかもしれません。

確実なのは、十代半ばから京都のお店でお座敷に出ていたということです。現代なら児童労働その他諸々でマズイですが、当時はむしろ当たり前でしたから大丈夫だ、問題ない。
持って生まれた美貌に加え、頭の回転も早く物覚えが良かった松子は、年齢と共に芸妓としての名を上げていきました。

そこへやってくるようになったのが、将来の夫となる木戸孝允です。まだ倒幕前の時期なので、正しくは桂小五郎ですがまあこまけえこたあいいんだよ。
そして惹かれあっていくわけですが、いざ身請けしようという段階でひと悶着起きます。松子の美貌と才に惹かれた別のお金持ちが、「そう簡単に渡すか!」とゴネ出したのです。
当時まだ木戸は一介の藩士に過ぎませんでしたから、真正面からやりあったところで勝てないのはわかりきっていました。だからこそ相手も自信満々でこんなことを言ってきたのでしょうね。

 

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伊藤博文が刀を突きつけて直談判! 

が、縁結びの神様は木戸に味方しました。
同じく芸者遊びが好きだった伊藤博文が、お金持ちの客に対し刀を突きつけて直談判したのです。総理、何してんすか(まだなってないけど)。
あまりの剣幕にお金持ちは引っ込み、無事に木戸と松子は名実共に相思相愛となりました。

何でいきなり伊藤が出てくるのかよくわかりませんが、伊藤の芸者好きは既に有名だったそうなので、木戸が「身請けしたい人がいるんだが、ちょっと困っている」とか相談したんでしょうかね。だからって刀が出てくるとは思わなかったでしょうけども。
当事者同士で刃物を出していたら間違いなく大怪我、最悪、殺るか殺られるかになっていたでしょうから、第三者である伊藤がそこまで大げさなことをやってくれたのはよかったのかもしれません。
結果死傷者が出なかったのですから万々歳ですね。

若かりし頃の木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)/Wikipediaより引用

若かりし頃の木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)/Wikipediaより引用

 

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新撰組に捕まったり、会津藩のならず者に乱暴されかけたり 

しかし、ここからが木戸と松子にとっての正念場になりました。
ときは幕末。つまり、武士の間で「攘夷だ!」「アホか開国だ!!」「「アイツムカつく! ブッコロ!!」」(超訳)という考え方が当たり前になっていた時期です。
特に木戸は長州藩の人ですから、池田屋事件・禁門の変からの「お前ら朝敵」レッテルを貼られてしまった後、常に命を狙われている状態でした。

「逃げの小五郎」とはいえ、物には限度がありましょう。松子は無事を祈って待つ日々でしたが、新撰組に捕まったり、会津藩のならず者に乱暴されかけたりと、無関係ではいられませんでした。
……ちなみに後者の一件の際、伊藤博文が「松子が三味線を追って投げつけ、その隙に対馬藩邸に助けを求めて事なきを得た」と語ったことがあるそうなのですが、何でそんなの知ってたんでしょうね。事実でもそうでなくてもコワイ。

その後も「妻なら夫の居場所を知っているだろう!」と考えた輩に終われる日々が続きます。
が、松子はそのたびに協力者に助けられたり、あるいは自身の機転によって危機を乗り越えました。一つところにいた時期はそう長くないので、「留守を守る」というイメージではありませんが、夫の情報と命を立派に守っていたわけですね。

当然その苦労は並大抵のものではなく、やっと木戸と再会できたときも横を向いたままだったとか。
でも、もしかしたら嬉しすぎて何も言えなくて、その照れ隠しだったかもしれませんね。アルェー命かかってるのに何か甘酸っぱくなってきたぞー?

岩倉使節団の頃の木戸孝允(左)。ほかは左から山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)

岩倉使節団の頃の木戸孝允(左)。ほかは左から山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)/wikipediaより引用

 

一緒に西洋旅行も計画していたが…… 

まあそんなこんなでやっと一緒に暮らすことを考え始めたのが、ちょうど明治元年(1868年)頃のことだといわれています。
このへんについては身分何たらというよりただ単純に戊辰戦争などの影響だと思われますが、結婚した日についてははっきりわかっていません。
翌年には東京で暮らし始めており、木戸の日記などから夫婦生活がいくらかわかるようになってきます。
友人の家へ行くとき夫婦揃って出かけたとか、木戸の後輩へ贈り物をしたなど、細やかな配慮をする女性だったらしきことがうかがえます。

木戸にとっても松子はまさに「自慢の妻」だったらしく、ダイヤモンドの指輪を注文したり、一緒に西洋へ旅行する計画も立てていたとか。松子の服装(洋服)まで気にしていたそうですから、ホントにいつまで経っても仲の良い夫婦だったんでしょうね。

しかし、西洋旅行が実現する前に木戸が亡くなってしまったため、この計画は夢のままで終わりました。
木戸が亡くなった直後、松子は仏門に入って「翠香院」と名を改め、木戸との思い出が詰まった京都へ引っ越しました。文字通り、夫の墓を守るために後半生を費やしたのです。
唯一の楽しみは、木戸の存命中に迎えた養子・忠太郎の成長だけだったとか。

それから九年、望み通り夫との思い出を胸に、松子は彼岸へ旅立ちます。
現代人のイメージする幸せとは全く違いますけれども、見方を変えれば「理想の老後」ともいえるのではないでしょうか。

長月 七紀・記

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参考&写真:木戸松子/Wikipedia 木戸孝允/Wikipedia

 





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