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その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

昭憲皇太后にも愛された下田歌子 「提灯袴にブーツ」姿も考案した女子教育の先駆者とは?

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皆様、勉強はお好きですか? あるいは、学生の頃お好きでしたか?
たぶん「嫌い(だった)」と答える方が多いのではないかと思うのですが、今日我々一般人が勉強できるようになるまでには、様々な人の努力がありました。

だからといって現代人が過剰に気負う必要もないのですけれども、そういう人のことを知ると、「ちょっと真面目にやってみようかな」という気に……ならない? そっか(´・ω・`)
まあなった方もならない方も、本日はそんな感じのお話ということでご了承ください。

安政元年(1854年)8月9日は、教育家の下田歌子が誕生した日です。

本名は平尾鉐(ひらお せき)というのですが、例によって世間に通っているほうで統一しますね。
彼女は、幕末とはいえ江戸時代生まれの人。その時代の女性がどのように教育へ携わっていったのでしょうか?

下田歌子/wikipediaより引用

 

小学校低学年くらいの歳で俳句や漢詩を詠むほどに

歌子は、現在の岐阜県恵那市稲村に生まれました。
父の身分は一藩士であり、さほど高くなかったのですが、幕末に勤王家の一員として動いていたため、一時は苦しい生活をしていたようです。

そんな中、歌子は祖母から読み書きを習い、今でいう幼稚園や小学校低学年くらいの歳で俳句や漢詩を詠むほどの才媛に育っていたそうです。
そして花も恥じらう17歳になると、明治政府に招聘された儒学者の祖父・東条琴台(きんだい)や父を追って上京し、勉学により励むようになったといいます。
勉強のために自ら動いたというあたり、彼女のフットワークの軽さがうかがえますね。

その評判がどこからか伝わったようで、上京した翌年には女官として明治宮殿に出仕。特に博識さや和歌のうまさが昭憲皇太后に愛され、「歌子」の名を賜っています。

 

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藤原彰子が紫の上を気に入ったから紫式部

歌が上手だから歌子ってのも「まんまやん」と突っ込まれるかもしれませんが、宮中の呼び名って、実はシンプルな由来のものが多いんですよね。

有名どころでいえば、紫式部でしょうか。

彼女は源氏物語が当時の公家社会や宮中に広まるまでは、藤原氏の出身であることと、父親の役職という点を組み合わせて、「藤式部」と呼ばれていました。しかし、主人である藤原彰子が登場人物の紫の上をいたく気に入ったことから、作者である彼女を「紫式部」と呼ぶようになり、今に伝えられているといいます。

ですから、昭憲皇太后が「歌がうまいから、あなたのことは“歌子さん”とお呼びしましょうね」と言ったとしても、ただ単に安直というわけではないのです。「歌といえばこの人」というような意味もあったかもしれません。

こうして昭憲皇太后に愛されるようになった歌子は、やがて宮廷の人々に和歌を教えるようになります。
明治天皇も昭憲皇太后も洋装のイメージが強いですが、実は和歌をこよなく愛していました。お作も数多く伝わっています。残念ながら、全ては公開されていませんが……。

 

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女性に勉学を教えるための「桃夭女塾」を開く

数年後、歌子は結婚のため女官を辞することになります。しかし、運悪く三年後に夫が病気になってしまい、苦しい家計を支えるため、歌子は看病をしながら「桃夭(とうよう)女塾」という私塾を開きました。
文字通り、女性のために勉学を教える塾です。

明治政府では実力で仕官できた代わりに、急に上がった身分に対し、教養が見合っていない人もままいました。そうした人の妻は、元芸者など、学問と縁遠かった人もいたため、彼女たちのために古典や和歌を教えたのです。
江戸時代までならともかく、西洋のマナーでは公的な場に妻を同伴するのが当たり前でしたから、女性の教養もより高いレベルが必要になりました。そういう世間の状況を見越して、歌子は自らの才覚を活かしたのです。

これが功を奏し、歌子は自らの道を切り開いていくことになります。

看病の甲斐なく、結婚から五年後に夫が亡くなったとき、昭憲皇太后から「あなたは女性に学問を教えていたそうだから、今度作る華族女学校の先生をやってくださらないかしら」とお声掛かりがありました。
ここは文字通り華族の女性たちのための学校。歌子の古典・和歌・儒学の知識が遺憾なく発揮される場所であります。

「女学校の生徒」というと「提灯袴にブーツ」が連想されますが、あれも歌子の発案だそうです。なんでも学校のほうで「これからは洋装で通うように」と言いつけても定着しなかったため、もう少し和装に近く、生徒に受け入れやすいものを、ということで考えだされたのだとか。

袴ブーツ

 

「欧米の女子教育を視察してほしい」と宮中からの依頼

他にも、華族女学校ではいち早く体育の授業も取り入れられ、先進的な教育も実施。新聞には「珍妙」と書かれたようで、いつの時代もマスコミのケチの付け方は変わりませんね。

ともかく真面目に華族の子女教育を務めていた歌子に、39歳のとき宮中から思わぬ仕事が舞い込みます。

「(明治天皇の娘である)昌子内親王や房子内親王が、将来欧米の賓客と対等にやり取りできるように、欧米の高貴な女性がどのような教育を受けているのか、視察してきてほしい」

かくして半年ほどの準備の後、歌子はイギリスへ旅立ち。

現地で三ヶ月間英語を習い、12月にロンドンへ向かい、ヴィクトリア女王一家の生活や教育、市井の人々との距離を間近に見た歌子は、大きなカルチャーショックを受けました。
彼女がスゴイのは、ただ単純に「高貴な人々も、もっと人前に出なくてはならない」とは考えず、「こうした自立した女性になるには、教育と生活習慣が重要だ」と感じ取ったことでしょう。

次第に歌子は、お上から任された皇女教育だけでなく、一般女性の教育へも興味を広げていくようになったのです。

 

日本が一流国になるためには一般女性の教育が重要

イギリスの女学校やケンブリッジ大学の女子寮、女子教員養成校を見学した後、フランス・ドイツ・イタリアでも同様に女子学校を訪問。
その中でヴィクトリア女王とも謁見し、女性君主というものを初めて目にします。

とはいえ、悪い意味で「西洋かぶれ」になることはなく、ヴィクトリア女王の御前には、伝統的な女官の服装である袿(うちぎ)に袴で行ったそうです。十二単っぽいものを想像していただければ良いかと。
どうでもいいですが、あんなにかさばるものをイギリスまでよく持っていけたものですね。ロストバゲッジにならなくてよかったよかった。

こうして二年ほどのヨーロッパ滞在で、歌子は女子教育の方向性を定めました。

自主自立・慈善・博愛、そして科学の中で実生活に役立つことも教えるべき。
そう考えた歌子は、帰国後に「帝国婦人協会」を設立し、「日本が一流の国になるためには、皇族や華族だけでなく一般女性の教育が重要」として、そのために動きました。

当時は、まだまだ男性主権が強かった時代のこと。歌子の主張を歓迎する人がいる一方で、「何だあの女、ケシカラン!!」とケチをつけてくる心の狭い人もいました。
このとき既に東京女学校(お茶の水女子大学附属中学・高校の前身)などは開かれておりましたが、未だ女性の教育には否定的な人が多かったのです。
華族女学校でも、在学中に結婚が決まって中退する人のほうが好ましく見られており、いつまでも学校に通っている女性は「行き遅れ」と見られがちだったのでした。

 

学習院から身を引かざるをえない状況に……

明治三十九年(1906年)、歌子がかつて勤めていた華族女学校が学習院に統合され、乃木希典が院長に就任すると、学内でも女子の教育方針を巡って対立が起きます。

乃木が女子教育についてどのように考えていたのかはっきりしませんが、軍人気質ですから「家の外のことやお国のことは男がやるのだから、女子は家のことに集中し、子供を産み育てるのが一番」というように考えていたでしょう。
もちろん、歌子も女子の教育を主張して譲りません。

そんな中で、突如歌子のスキャンダルが大々的に報じられます。内容はテンプレかつ品がないので省略しますが、そのせいで歌子は学習院から身を引かざるをえなくなってしまうのです。

ちなみに、同時期に市井では「結婚媒介所」という商売が現れています。現在の結婚相談所のようなものです。
当時の結婚というと、ほとんど親が決めた相手に嫁ぐというものでしたが、「少しでも自分が気に入る人と結婚したい」という女性に人気があったとか。華族の女性も珍しくなく、中には学習院の生徒もいたそうです。

歌子の影響がどれほどかはわかりませんが、時代は着実に「女性が自らの生き方を選ぶ」ほうに向かっていたというわけですね。

 

板垣退助夫人の呼びかけで順心女学校の初代校長に就任

それから10年ほど経ち、歌子に新たな仕事が持ちかけられました。
同じく女子教育に携わっていた板垣絹子(板垣退助夫人)に誘われ、順心女学校(現・広尾学園)の初代校長に就任したのです。

そして昭和十一年(1936年)に亡くなるまでの18年間、彼女は女子教育を広めることに専念。若かりし頃に作った桃夭女塾も「実践女子学園」と名を変えて今に続いています。

また、故郷の岐阜県恵那市にも歌子の功績を称えるものがいくつかありまして。平成十五年(2003年)から、彼女を称えて「下田歌子賞」というエッセイ・短歌の賞が始まりました。

岩村城城跡公園には、歌子の勉学所を再現したものや、銅像があるそうです。※詳しくは以下の恵那市観光協会様のページでどうぞ。

恵那市観光協会ウェブサイトより引用

岩村城は信長の叔母・おつやの方の逸話といい、女性にゆかりのある土地なんですかね。

女子に限らず「勉強する意味がわからない」「社会に出ても役に立たないことばかりやらされる」と感じる人も多いようですが、歌子は寂しく感じているかもしれません。
まぁ、頭ごなしに「やれ!」「覚えろ!」しか言う先生ばかり……という状況だったら、致し方ないことではありますけども。

面白く教えるのも教師の役目。と言いたいところではありますが、中にはモンスターペアレントや雑務に追われてゆとりのない先生もおられるのかもしれません。にっちもさっちも行きませんなぁ。

長月 七紀・記

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参考:下田歌子/wikipedia きもの物語

 





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